電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

戦中期~終戦直後における旧制高校の実験室

2017年11月14日 06時01分28秒 | 歴史技術科学
戦中期の大学における実験室の様子を、いくつかの回想記をもとに探ってきましたが、大学以外の、他の学校ではどうだったのか。旧制六高の名物教授であった山岡望氏の伝記(*1)をもとに、旧制高等学校のエピソードをひろってみたいと思います。

山岡望氏は日本化学会の第1回化学教育賞を受賞した教育者で、1892(明治25)年に三重県津市の教会牧師・山岡邦三郎・ハル夫妻の三男として生まれました(*2)。父が牧師を辞め民間会社に転じたため大阪へ転居、13歳で府立岸和田中に入学します。兄を追って1910(明治43)年に第一高等学校に入学し、3年後の1913(大正2)年に東京帝國大学理科大学化学科に入学しますが、この一高~東大時代の同期に矢内原忠雄がおり、親友となります。山岡は『向陵三年』という書物を書き、これに「わが敬愛する矢内原忠雄兄にこの小著を贈る 山岡望」との献辞を添えて贈っているとのことです(*3)。
理科大学化学科には、このとき桜井錠二、池田菊苗、松原行一の三教授と、柴田雄次助教授が在籍しており、山岡はオストワルド門下でライプツィヒ大学仕込みの池田菊苗教授の下で有機化学を専攻します。ところが、1915(大正4)年、23歳の山岡は重い肋膜炎にかかり、35日間東大病院に入院し、半年ほど休学することを余儀なくされます。翌1916(大正5)年にようやく卒業しますが、研究者としての道ではなく、岡山の旧制第六高等学校に講師として赴任することになります。24歳の山岡にとっては一つの挫折ではあったでしょうが、翌年に正式に教授に昇任し、講義と化学実験室の経営にあたる六高の名物教授という、ある意味で幸福な生活を送るスタートとなります。


 昭和15年夏、旧制六高化学実験室における3年生の定性分析 (『山岡望傳』p.89より)

「Be Prepared」(常に準備せよ)というYMCAのモットーに基づき丹念に準備された講義実験と、化学史上のエピソードや名詩句をちりばめた講義は評判を呼び、情熱を持って取り組んだ学生実験室は様々な工夫がなされ、ここから多くの俊秀が巣立っていきましたが、1937(昭和12)年には矢内原忠雄が東大を追われ、1940(昭和15)年には六高校友会に所属する学内団体はすべていったん解消し、あらためて六高報国会として再組織されるなど、時局は戦争への道を進み始めます。山岡を中心とした私的なサークルであった六稜会は、校友会に所属していなかったために再編を免れますが、この時期について山岡は後に次のように回想しています。

--Inter arma silent musae, 武具の間にあっては学芸は沈黙する--
Hoffmann が好んで引用する古い言葉でありますが、例の大戦争の時にも学生たちは学問を棄てて武器を取らねばならず、戦線に赴かぬ者たちも工場やら農村に出向いて銃後を固めねばなりませんでした。六高は瀬戸内海に臨む玉野市の三井造船所に動員して働いておりました。しかし学問を棄ててしまうわけには参りません。作業の合間に教授たちが出張して行って補習の授業をやっておりました。 (『山岡望傳』p.363)

生涯独身を貫き、化学教育に生涯を捧げた山岡は、戦争が終結し再び学生実験ができる日を待ち望んでいたことでしょう。しかし1945(昭和20)年、岡山大空襲により、旧制六高も、山岡が心血を注いだ実験室も、そして自宅も、みな焼失してしまいます。

終戦後、焼け残ったコンクリートの化学天秤室に寝起きして、山岡は講義を再開すべく準備し始めます。昭和22年、講堂、普通教室、寮、食堂などは復興していましたが、学生実験室はありません。講義実験だけでは満足できない、早急に学生実験を実施したいと考え、始められたのが青空の下の化学実験でした。

化学の分析の実習は昭和22年の秋から強行した。暗室前の中庭に半壊の銃掃除台を4~5台並べて塩類の分析を始めた。アルコール燈4個、水道は1個。これでクラス80人が同時に実験する。試薬は足りない、ビンやガラス器は更に足りない。強引きわまる青空実験室である。(同,p.174)

この状況を経験した教え子たちは、このように回想しています。

当時は教育界も混乱の時代であった。その中にあって山岡先生の授業だけがさまざまな物質的、精神的な困難にもかかわらず、整然かつ親密に行われていたのはむしろ不思議なくらいであった。(同p.175)

化学の教育の本質は実験室にあると明治の先人たちが伝えたリービッヒ流の教育の思想と方法は、山岡望の情熱に鼓舞されながら、終戦後の焼け跡の中から再び立ち上がります。

(*1):山岡望傳編集委員会『山岡望傳』(内田老鶴補)
(*2):この件、「ことバンク」では父の名を邦三と誤記。また長男は出生後すぐに亡くなっていますので、実質的には次男です。
(*3):表紙 向陵三年


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