日本化学会が創立百周年を機にまとめた新書判の小冊子『日本の化学 100年のあゆみ』(日本化学会編・井本稔著)に、興味深いデータが掲載されています。それは、明治13年から44年までの東京化学会誌と興行化学雑誌に掲載された報文数の推移のグラフ(p.54、図2)と、大正元年から昭和15年までの同誌及び欧文誌"Bulletin of the Chemical Society of Japan"に掲載された報文数の推移のグラフ(p.65、図1)です。これによれば、
ということがわかります。とくに大正期の増加は工業化学雑誌で著しく、第一次大戦による日本経済の向上を反映しているものと考えられます。
『日本の化学 100年』によれば、研究の内容面からは「衣料資源がないならば化学繊維を、肥料と軍事力のためにはアンモニアを、一朝有事の際には自力で医薬や染料を」(p.78)という目標からもわかるように、軍事的・帝国主義的な色彩を強く持っていたことが指摘されますが、また一方では、基礎となる基礎化学の必要性が認識されていったことも確かでしょう。大正期が、西欧の進んだ科学技術の紹介・模倣から自立へと歩む時期であったと位置づけて良かろうと思います。
この頃の指導的な化学者として、同書は次のような人物を挙げて紹介しています。
いずれも、それぞれの分野におけるビッグネームですが、これらの人々は日本で教育を受け、研究に携わった後に欧米の大学に留学して、ギーセン大学でリービッヒが開始したような実験室を通じて教育と研究を進めるというスタイルでそれぞれの研究を深めて帰国し、研究を発展させていった、という特徴を持っています。一言で言えば研究を深めるために留学しており、学ぶために留学していた明治初期の国費留学生とはだいぶ異なる様相を示しています。このあたりも、紹介から自立へという変化を表していると考えます。
例えば真島利行(*1)は、1874(明治7)年に京都市に生まれ、京都府中学を経て第一高等学校に入学、東京帝国大学理科大学を卒業後、同大助手、1903年から助教授となり、1907年から留学します。真島の研究テーマは漆の化学成分で、留学先は、いずれもリービッヒの弟子またはその門下生にあたり、ドイツのキール大学のハリエス教授(*2)と、スイスのチューリヒ工科大学のヴィルシュテッター教授です。ここで、真空度の高い減圧蒸溜法やオゾン酸化法、接触還元法などを取り入れ、帰国後に東北帝国大学理学部を拠点に、白金黒を触媒として水素気流中で接触還元するという方法で、1917年には漆の化学成分を突き止めます(*3,*4)。東洋の島国に生まれた若者が、ドイツに発する実験室を通じた教育と研究というスタイルで成長し、人種や国籍を越えて世界的な研究に到達するという、見事な実例です。
真島は、1911(明治44)年に東北帝国大学教授に就任していますが、この研究の最中の1913(大正2)年に、一つの「事件」が持ち上がっていたのでした。
(続く)
(*1):真島利行~Wikipediaの解説
(*2):Carl Dietrich Harries~Wikipediaの解説(ドイツ語)
(*3):真島利行の業績
(*4):化学遺産の第3回認定~眞島利行ウルシオール研究関連資料,久保孝史・江口太郎,『化学と工業』,2012年7月
- 明治期において、年間の報文数は10編程度から二誌あわせて50編程度まで増加した。
- 大正期、とくに大正末期から報文数が顕著に増加し、100編を越えるようになる。
ということがわかります。とくに大正期の増加は工業化学雑誌で著しく、第一次大戦による日本経済の向上を反映しているものと考えられます。
『日本の化学 100年』によれば、研究の内容面からは「衣料資源がないならば化学繊維を、肥料と軍事力のためにはアンモニアを、一朝有事の際には自力で医薬や染料を」(p.78)という目標からもわかるように、軍事的・帝国主義的な色彩を強く持っていたことが指摘されますが、また一方では、基礎となる基礎化学の必要性が認識されていったことも確かでしょう。大正期が、西欧の進んだ科学技術の紹介・模倣から自立へと歩む時期であったと位置づけて良かろうと思います。
この頃の指導的な化学者として、同書は次のような人物を挙げて紹介しています。
- 真島利行(1874-1962) 有機化学
- 朝比奈泰彦(1881-1975) 薬学
- 鈴木梅太郎(1874-1943) 農芸化学
- 大幸勇吉(1867-1950)、片山正夫(1877-1961) 物理化学
- 柿内三郎(1882-1967) 医化学→生化学
いずれも、それぞれの分野におけるビッグネームですが、これらの人々は日本で教育を受け、研究に携わった後に欧米の大学に留学して、ギーセン大学でリービッヒが開始したような実験室を通じて教育と研究を進めるというスタイルでそれぞれの研究を深めて帰国し、研究を発展させていった、という特徴を持っています。一言で言えば研究を深めるために留学しており、学ぶために留学していた明治初期の国費留学生とはだいぶ異なる様相を示しています。このあたりも、紹介から自立へという変化を表していると考えます。
例えば真島利行(*1)は、1874(明治7)年に京都市に生まれ、京都府中学を経て第一高等学校に入学、東京帝国大学理科大学を卒業後、同大助手、1903年から助教授となり、1907年から留学します。真島の研究テーマは漆の化学成分で、留学先は、いずれもリービッヒの弟子またはその門下生にあたり、ドイツのキール大学のハリエス教授(*2)と、スイスのチューリヒ工科大学のヴィルシュテッター教授です。ここで、真空度の高い減圧蒸溜法やオゾン酸化法、接触還元法などを取り入れ、帰国後に東北帝国大学理学部を拠点に、白金黒を触媒として水素気流中で接触還元するという方法で、1917年には漆の化学成分を突き止めます(*3,*4)。東洋の島国に生まれた若者が、ドイツに発する実験室を通じた教育と研究というスタイルで成長し、人種や国籍を越えて世界的な研究に到達するという、見事な実例です。
真島は、1911(明治44)年に東北帝国大学教授に就任していますが、この研究の最中の1913(大正2)年に、一つの「事件」が持ち上がっていたのでした。
(続く)
(*1):真島利行~Wikipediaの解説
(*2):Carl Dietrich Harries~Wikipediaの解説(ドイツ語)
(*3):真島利行の業績
(*4):化学遺産の第3回認定~眞島利行ウルシオール研究関連資料,久保孝史・江口太郎,『化学と工業』,2012年7月