電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

ジョージ・セルの訃報の頃

2010年07月30日 06時03分03秒 | クラシック音楽
ジョージ・セル没後40年になりました。ヒトラーと第二次大戦が彼のヨーロッパでの経歴を台無しにしたことは明らかですし、ナチス・ドイツと組んだ日本などに、なぜ行かなければならんのだとゴネたらしい。ですが、戦後25年が経過したかつての敵国で、熱心な聴衆に大歓迎され、演奏会の合間に古寺名刹を訪問したのがいたく気に入ったとか、新幹線の中で奥さんに隠れて飲んだコーラがうまかったとか、来日前の先入観とは異なり、日本の印象はだいぶ良かったようです。雑誌 FM-fan に掲載された、たしか富永壮彦氏のインタビュー記事では、セルのグルメぶりや、彼一流の辛辣な言辞が紹介されておりました。もちろん、当時すでに体調はあまり良くなく、いざという時のためにブーレーズが同行するような状態だったようですが。

来日前は CBS-SONY の前宣伝ばかりが目立ち、音楽雑誌等における注目度は、カラヤンとベルリン・フィルに大きく水を開けられておりました。ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の5月の演奏会が NHK-FM で放送され、当方がオープンリールのテープレコーダに録音していた頃(*)、たしか東京と大阪と両方の演奏会を聴いた吉田秀和氏が新聞に絶賛の演奏会評を発表するに及び、世評は一変しました。そしてその余韻に浸っていたとき、ジョージ・セルと、たしかその翌日に、来日を前にしたバルビローリの訃報を知ったのでした。甲子園の熱闘も当時の流行歌も忘れましたが、今なお色あせない1970年の夏の記憶です。

あの頃、つい先年に亡くなった父はまだ40代前半でした。献血の際の血液検査で異常がわかり、体調の不良がヒロシマの救援にあたった際の入市被爆によるものではないかと悟ったのも、たしかこの頃ではなかったかと思います。担任に話をしたところ、被爆者認定はできないのかと言われましたが、部隊の戦友たちは消息不明で証人が得られない、と答えた記憶があります。しかるに当方は、いたって呑気に暮らしておりました。この年齢になって、父の苦闘のあとがわかります。今更ながら感じる親のありがたみです。

(*):セル/クリーヴランド管の来日公演ライブ録音のこと~「電網郊外散歩道」2005年7月
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