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もーさんのひとりごと

ここでは工作に関する話の他に趣味の家庭菜園の話、時事(爺イ)問題、交友禄など日々の雑感を気まぐれに更新していきます。

折り返し展・その7

2007年11月15日 | 雑記
 今、段ボール3個分の原画のスキャンをほぼ終えたが、阿奈井文彦さんとの同行取材のルポ、田辺聖子さんの挿し絵も多く描いたはずだが手許には数枚しか残っていない。
 半村良さんのエッセーに描いた挿し絵は1枚もない。
 ひょっとしたら編集部から戻っていないのではなく、我が家のどこかに4個目の段ボールがあるのかも知れない。
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 今回も「退職刑事」シリーズより。
 カラーのものも、単行本になった表紙の原画だが、背景の水の部分に色指定をして刷り上がりには色が着いているのだが、印刷上がりの表紙は見当たらない。

「牛坂浩二」のペンネームー4
 牛坂浩二のペンネームも、平成3年に海老名市に転居をした時の工房の住所が<中新田>という住所だったことから一時<牛坂も助>と替えて<中新田のも助>という語呂の良さで悦に入っていたこともあったが、現在はまた元の浩二に戻して、エッセーなどの雑文とイラストを描く時に用い、クラフト関係は<ゴト-孟>と仕事の内容でペンネームの使いわけをしている。・・・この話やっと終わり・・・





折り返し展・その5

2007年11月01日 | 雑記
 ある日横溝正史エンサイクロペディアというホームページの中に私のもうひとつのペンネーム(牛坂浩二)をみつけた。

 そこには1976年「別冊問題小説」の横溝さんの文章に私が絵を描いていることになっているが、私自身には横溝さんの文章に絵を描いた記憶は全くない。
 そのときは何かの誤記かと思っていたが、この「折り返し展」を掲載するにあたって、昔の原画を整理していたら・・・あった! 確かに横溝さんを描いたイラストの原画が4枚出て来た。
 ここに掲載した絵はそのときのもので、今から30年前のこととは言え、その記憶がまったくないということは、ここまでボケが進んでいることに愕然とさせられた。

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 他の2枚はムツゴロウさんで、1986年ころ週間小説に描いたもので、長い連載小説だったのでしっかり記憶に残っている。
*長い連載だったわりに原画は2枚しか残っていないのはどうしてなのだろう?

「牛坂浩二」のペンネームー2
 長じて、出版物の絵を描くようになったとき、シャレ心もあって当時の浅丘ルリ子さんの夫君だった石坂浩二氏にあやかったペンネームにしたが、その頃は石坂氏も絵を描くと言うことを知らなかった。
 私が牛坂の名前で仕事をし始めて2~3年程した頃に、石坂氏が自由が丘の画廊で個展を開いたと言うニュースに接したが、そのときには私は牛坂浩二の名前ですでに多くの仕事をしていて、途中で名前を変え難い状態になっていた。・・・この話はもうちょっと続く・・・




折り返し展・その4

2007年10月23日 | 雑記
<人間臭さ>を表現したいと思って描きはじめたイラストレーションだったが、ある新聞の日曜版の企画で某女性評論家の文に絵をつける仕事の時、その評論家からは「牛坂の絵はあまりにも日本人臭くて嫌だ」と拒否されたがことがあった。
 しかし、その日本人臭さは私が狙っていた<生活感のある人間>が描けている証しでもあった。
 そして、逆に日本人臭い絵は田辺聖子さん、半村 良さん、都筑道夫さんからは挿し絵は牛坂に描いてもらって欲しいという指名にもつながった。

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「牛坂浩二」のペンネーム-1
 私がまだ中学生だった1955年、「緑はるかに」という浅丘ルリ子さんのデビュー映画(それも本編ではなく、その予告編)を見てすっかり胸をときめかしてしまった。
 それ以来、私は彼女の出演する映画のポスター、看板の前を通るだけで心臓が高鳴ってしまい、その前は小走りで走り抜けるという純情少年だった。
 で、その後浅丘ルリ子さんの映画に通いつめたかと言うと、その逆で、余りの気高さに畏れ多くて68歳に至るも未だに1本の映画もTVドラマも見たことがない。
・・・この話は続く・・・


●新作の工作「お月さまのウサギ」をアップしました。 


折り返し展・その3

2007年10月18日 | 雑記
 この回から突然に絵が変わっていることに「もーさん、どうしちゃったの?」と思われるでしょう。
 
  この頃から見かけ上のかっこいい男、きれいな女を描くことに飽き足りなくなり、醜さもユーモアもある生活感のある人間を描きたくなった。
<人間臭さ>を描こうとして画風が180°変わり、30歳を期にファッション画を教えに行っていたすべての学校をやめて、発表の場を出版物に求め、<牛坂浩二>のペンネームで雑誌の挿し絵やカット、社会風刺のイラストを描くようになったのです。
 今回からは、しばらく30歳~50歳代に描いた挿し絵が続きます。

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 東京に出て来て6年が経ち、30歳を過ぎた頃からやっと自分自身が見えて来て、変な力みも抜けてイラストも文章も等身大の自分が表現できるようになって来た。
 振り返ってみると、この頃が自分のペースで歩き始めた出発点だったように思えるが・・・
 他の人たちと比べると、かなり遅いスタートだった。

●7月下旬の パソコンのクラッシュで消えてしまった予定原稿をやっと書き直し「遊びの歳事記」も5月以来の久々の更新で「第15話/潜水艦づくり」を本日アップしました。
 また、工作の「展示室」「実習室」も新作のアップをすべく、撮影のし直しを始めました。
 もうしばらくお待ち下さい。







折り返し展・その2

2007年10月14日 | 雑記
 昭和10年代生まれの私たちの世代はまだまだ親が決めた進路に従わなければならなかった時代で、自分の希望する高校には進めなかったが、東京に出て来て親の束縛から逃れて遅まきながらやっと本来の自分探しが始まったばかりだった。

 20歳代の頃はまだまだレッスンプロの時代で、東京をはじめ名古屋、四日市、桑名市、白河市などの洋裁学校、デザイン学校などでファッション画を教えることが主な仕事で、私もまだまだ青くて一生懸命 形を上手に描こうとしていた頃の絵です。W

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①桑名市(三重県)の洋裁学校のポスター
 東京に出て来て当時住んでいた3畳のアパートで、習い立てのシルクスクリーンの技法を使ってひとりで印刷までしていた
②記憶が確かではないが、東京に出て来る前に描いた紙バッグだと思うが、そんな古い袋がしわくちゃになって出て来た
③上の紙バッグをデザインしたときのもの
④1970年頃の若者向けの便箋の表紙
⑤1970年ころからアクリル絵の具が流行りだし、その習作
⑥デザイン学校の生徒募集のポスター


 この頃は東京で2年ほどデザイン、イラストの勉強をして、名古屋に帰りデザイン会社に就職をするつもりだったが、つい長居をしてしまって68歳となってしまった今はもう就職先はないだろうナ。