晴れ。今朝は寒かった。予報でも、5度から14度とありましたし。もっとも陽が出てからは、それほどの寒さは感じられないのですけれども。
「イチョウ(公孫樹)」が気になります。色づきと散り具合が…。気ぜわしいですね。日本人は、一年に二回、こういう状態になるのですけれども。
春は、「サクラ(桜)」の花に追われ、秋は「紅葉(黄葉)」に追われる。こういう国に生まれたばっかりにこんな気持ちにさせられる…。
「春風の 花を散らすと 見る夢は 覚めても 胸の さわぐなりけり」(西行)
「花散らす 風の宿りは だれか知る 我に教えよ 行きて うらみむ」 (素性法師)
「梢吹く 風の心はいかがせむ 従ふ花の 恨めしきかな」 (西行)
これらをそのまま、「秋風」と換え、「もみじ」と置き換えれば、心は同じ、成立します。
「紅葉」予報では、「明治神宮外苑」のイチョウ並木の見頃は今週末とか。
「これ小判 たった一晩 いてくれろ」をもじって、
「これ木の葉 たった○○いてくれろ」と念じたいような気分です。
さて、
「リーダーとは」とか、「リーダーになる条件」とかいう、「リーダー」論が、常に街の本屋に堆く積まれ、またテレビなどでもよく特集が組まれています。それほど、「リーダー」が待ち望まれ、リーダー論に適せぬ一般大衆は「リーダー」になることを夢見なければならないのでしょうか。
リーダーになりたいと思わねばならぬのか、またならねばならぬものなのか、ちょっと不思議な気がするのです。そんな脅迫観念に付きまとわれねばならないのかと。
これも「独り立ち」できていない「日本人だから」なのでしょうか。最近は、「だれかが呼びかけ、自然に集まり、そして互いに何の関係も持たずにそのまま去り、そしてまただれか他の人の呼びかけで集まり、そして散る」、そういう活動も増えているように思われるのに。そこでは皆が、いわゆる「リーダー」であり、だれか決まった人による行動ではありません。
人は、だれか、いわゆる「リーダーシップなるもの」を持った、特定の人が組織を作らねば、何もできないと思い込んでいるのかもしれません。その「だれか」が、普通の生活を送っている「あなた」でもいいし、またその横の、「あなた」でもいいとは、思えないのでしょう。
もちろん、100人を超す集団を「束ねていく」のは大変でしょう。が、それぞれ、その「個」が、きちんと立っていれば、特別のリーダーシップなるものを振るわずとも、さまざまな事が成立していくような気がするのです。
その中の、だれかが呼びかけ、皆が合意できれば、(成立するまでの意見の交換を通じて、見分けられた個々人の能力から)自然と役割分担が決まっていく。必要なのは、互いに、他者の美点を感じるセンスであり、他者を尊重できる態度だけでしょうに。
というのも、昨今の「リーダー」の最たるものであるべき、またあるはずの「政治」を司る人達(それも国府ですから、最たるものです)に、それほどのリーダーシップが感じられないのです。
これなら、街のオッさん、おばさん達の方がずっと優れている…。本当にそう感じるのです。なんといっても、オッさん達には「こころ」がありますから。「おらが街」のために、汗水垂らしてでも行動できるという「こころ」がありますから。
「地位」が人の成長を邪魔するのか。それとも、それに伴う「金」や「権力」「権限」なるものなのか。「地位」などに殺されるくらいなら、それ(その地位に就くこと)を「拒否」できるくらいの「ハラ」を持てばいいのに。
結局、個人個人の意思を明らかにして、まとめ、集団で行動できるというのは、古代ギリシアのポリスを成立させていた人数感覚しかないのでしょう。これ以上になると、「個」が埋もれて、人々の意思が通らなくなる…という感覚です。そう感じたら、そう感じた人々がポリスを出て、新たな国をつくるしかないのです。「規模には限界がある」とも思うのです。
その集団の資質にもよるのでしょうが、「2日や3日、寝ずとも突っ走れるという人を必要とすしているか」、「多くの人が陶酔できるような人を必要としているか」、「『上』を目指して、邪魔になるものは根こそぎ殺し尽くしてしまえるほどの『非人情性』』を必要としているか」。本当に、人々は、リーダーの条件に「カリスマ性」を求めているのでしょうか。
戦乱の世には、人々が「異常な心理状態」にあったでしょうし、「教育」を受けることもできなかったでしょう。また、「情報」も制限されていたことでしょうし。
けれども、平和な世が続き、人々も望めば十分な教育を受けることができるような時代に、本当に、今、世に喧しく言われている「リーダー」が必要なのでしょうか。
穏やかに、生活を送ることを願う人。その人達の生活を守ろうとする人。本来、この2者しかなく、そして後者の思いが、いつの間にか、緩やかなリーダーを育んでいくというのが理想なのではないでしょうか。
本来、日本はその伝統はあったはず。村祭の世話役や、消防団、何かの儀式の時のとりまとめ役、それらができる人達が、そのやり方、伝統を若者に伝えていく。その過程でリーダーが作られていったと思うのです。それが「心ある」リーダーであると思うのです。
昨今のリーダー論は「成功した人」か「成功できる人」しか見ていないようで、どこか薄ら寒くなってしまうのです。
日々是好日
「イチョウ(公孫樹)」が気になります。色づきと散り具合が…。気ぜわしいですね。日本人は、一年に二回、こういう状態になるのですけれども。
春は、「サクラ(桜)」の花に追われ、秋は「紅葉(黄葉)」に追われる。こういう国に生まれたばっかりにこんな気持ちにさせられる…。
「春風の 花を散らすと 見る夢は 覚めても 胸の さわぐなりけり」(西行)
「花散らす 風の宿りは だれか知る 我に教えよ 行きて うらみむ」 (素性法師)
「梢吹く 風の心はいかがせむ 従ふ花の 恨めしきかな」 (西行)
これらをそのまま、「秋風」と換え、「もみじ」と置き換えれば、心は同じ、成立します。
「紅葉」予報では、「明治神宮外苑」のイチョウ並木の見頃は今週末とか。
「これ小判 たった一晩 いてくれろ」をもじって、
「これ木の葉 たった○○いてくれろ」と念じたいような気分です。
さて、
「リーダーとは」とか、「リーダーになる条件」とかいう、「リーダー」論が、常に街の本屋に堆く積まれ、またテレビなどでもよく特集が組まれています。それほど、「リーダー」が待ち望まれ、リーダー論に適せぬ一般大衆は「リーダー」になることを夢見なければならないのでしょうか。
リーダーになりたいと思わねばならぬのか、またならねばならぬものなのか、ちょっと不思議な気がするのです。そんな脅迫観念に付きまとわれねばならないのかと。
これも「独り立ち」できていない「日本人だから」なのでしょうか。最近は、「だれかが呼びかけ、自然に集まり、そして互いに何の関係も持たずにそのまま去り、そしてまただれか他の人の呼びかけで集まり、そして散る」、そういう活動も増えているように思われるのに。そこでは皆が、いわゆる「リーダー」であり、だれか決まった人による行動ではありません。
人は、だれか、いわゆる「リーダーシップなるもの」を持った、特定の人が組織を作らねば、何もできないと思い込んでいるのかもしれません。その「だれか」が、普通の生活を送っている「あなた」でもいいし、またその横の、「あなた」でもいいとは、思えないのでしょう。
もちろん、100人を超す集団を「束ねていく」のは大変でしょう。が、それぞれ、その「個」が、きちんと立っていれば、特別のリーダーシップなるものを振るわずとも、さまざまな事が成立していくような気がするのです。
その中の、だれかが呼びかけ、皆が合意できれば、(成立するまでの意見の交換を通じて、見分けられた個々人の能力から)自然と役割分担が決まっていく。必要なのは、互いに、他者の美点を感じるセンスであり、他者を尊重できる態度だけでしょうに。
というのも、昨今の「リーダー」の最たるものであるべき、またあるはずの「政治」を司る人達(それも国府ですから、最たるものです)に、それほどのリーダーシップが感じられないのです。
これなら、街のオッさん、おばさん達の方がずっと優れている…。本当にそう感じるのです。なんといっても、オッさん達には「こころ」がありますから。「おらが街」のために、汗水垂らしてでも行動できるという「こころ」がありますから。
「地位」が人の成長を邪魔するのか。それとも、それに伴う「金」や「権力」「権限」なるものなのか。「地位」などに殺されるくらいなら、それ(その地位に就くこと)を「拒否」できるくらいの「ハラ」を持てばいいのに。
結局、個人個人の意思を明らかにして、まとめ、集団で行動できるというのは、古代ギリシアのポリスを成立させていた人数感覚しかないのでしょう。これ以上になると、「個」が埋もれて、人々の意思が通らなくなる…という感覚です。そう感じたら、そう感じた人々がポリスを出て、新たな国をつくるしかないのです。「規模には限界がある」とも思うのです。
その集団の資質にもよるのでしょうが、「2日や3日、寝ずとも突っ走れるという人を必要とすしているか」、「多くの人が陶酔できるような人を必要としているか」、「『上』を目指して、邪魔になるものは根こそぎ殺し尽くしてしまえるほどの『非人情性』』を必要としているか」。本当に、人々は、リーダーの条件に「カリスマ性」を求めているのでしょうか。
戦乱の世には、人々が「異常な心理状態」にあったでしょうし、「教育」を受けることもできなかったでしょう。また、「情報」も制限されていたことでしょうし。
けれども、平和な世が続き、人々も望めば十分な教育を受けることができるような時代に、本当に、今、世に喧しく言われている「リーダー」が必要なのでしょうか。
穏やかに、生活を送ることを願う人。その人達の生活を守ろうとする人。本来、この2者しかなく、そして後者の思いが、いつの間にか、緩やかなリーダーを育んでいくというのが理想なのではないでしょうか。
本来、日本はその伝統はあったはず。村祭の世話役や、消防団、何かの儀式の時のとりまとめ役、それらができる人達が、そのやり方、伝統を若者に伝えていく。その過程でリーダーが作られていったと思うのです。それが「心ある」リーダーであると思うのです。
昨今のリーダー論は「成功した人」か「成功できる人」しか見ていないようで、どこか薄ら寒くなってしまうのです。
日々是好日