日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

大学に入るとは…。

2016-01-20 16:12:12 | 日本語学校
晴れ。

今日は寒い。自転車に乗る前に、手袋を探してしまいました。

調べてみると、0度から10度。やはりねえ。学生達はきっと「寒い。寒い」と言いながらやって来ることでしょう。

さて、学校です。

大学へ行きたいという人たちには、皆、「どうして大学なのか」という「理由」があるはずです。

聞いて見ると、「知り合いの同国人が、この大学に入って、それから、日本のいい会社に入った。だから、私もこの大学に入っていい会社に入る」という答えが一番多かった…。困ったことです。

誰でも入れると考えているのです。そして、誰でもこの大学に入りさえすれば、いい会社に入れると思っているのです。

「彼(成功したというその人)は、とても勉強した。頭が良かっただけではなく、努力もした。10月に来日し、書いたり読んだりは、それほどできなかったけれども、通学の時、電車の中で漢字を覚え、卒業する頃には『N2』レベルの漢字は読めるようになっていた。あなたは毎日学校に来ることもできない」。

語学に堪能でなくとも、毎日学校に来ていれば、勉学の時に必要な単語や文は自然と身についているものです。そして、判りたいという態度ですね。それが消えていないのです。それが最低限の条件。それができなくて大学に進学してどうするのだろうという気がするのですが。

日本人なら、テキトーにやって仕舞われても、これが日本の小学校からの教育の結果だから、同じ日本人として、どこかで責めを負わねばならないと思ってしまえるのですが、日本が育てて失敗した人たちじゃあないのです。

まして私がここで使っている言葉もそれほど理解できない。『大学に入れさえすれば、日本のいい会社に入れると思うのは違っている。努力が必要だ」と言っても、多分、「理解」できないのです。彼らの頭では、「あの人ができたら、私もできる。どうしてできないと言うのか」で、その人のそうできた「過程」というか、「努力の跡」というか、そういうのが全く見えていないのです。

普通に話せ(るように思われていても)、アルバイト先で日本語が上手だと言われていても、結局、少しでも考えなければならない問題を与えたとき、何も答えられないし、書けないのです。それでいて、日本の習慣などが少しでも自分たちのものと違っていると、馬鹿にして笑うのです。よく判らない…けれども、多分自分たちの国の習慣が一番で、それと違うと、馬鹿にしてしまうのでしょう。それでいて、日本にいたい。それ自体が矛盾しているとしか思われないのですが、それに気がつかないのです。
  
多分、こういうことを考えるということも、彼らの「守備範囲」ではないのでしょう。

こういう人たちが大学に進んでも、大変だろうなあ(進学先の先生方も、そして本人も)と思います。日本は今、少子化が進んで若者の数が足りませんから、大学でも一人でもいいから入れたい。つまり、頭数です。いい学生を一人でもと思うことができるのは、かなり上のランクの大学で、大半の大学では、そうまではできません。

多分、こういう大学は、入れても面倒は見てくれません。伝達事項も日本人学生にやるのと同じように漢字を入れて書いてしまうと、彼らは途端に「困ってしまう」という実情も判ってくれません。

それほど日本語が上手でなくても、「毎日、大学に通い、勉強するなら面倒を見る」と腹を括ってくれる大学は、私たちのような日本語学校にとって、本当に大切なのです。

そういう大学には、できるならば、学生を選抜して入れたい。私たちが「この学生は、今、それほどの結果は出せていないけれども(『N3』や留試)、大学に行けば伸びるであろうと思える学生である」と思い、また「コツコツと努力をしてきたから、大学に入ってもきっとコツコツと努力を続けるであろう」と思える学生は、こういう大学へ入れて、育てていただきたいと思うのです。

ただ、(そうではない学生でも)受けたいと言いに来られれば、だめだとは言えないのです。テキトーにやっていても、インド圏の学生は、ペラペラと会話はできますから、普通の人たちには上手であるように見えます。「N2」レベルのテストでもしていただければ、すぐに判るのですが、面接だけでは本当に判らないのです。私たちだって、教えてみて、また、テストをしてみて、「へえ、本当に判らないんだ」とか、「書けないんだ」というのに、気づくくらいですもの。

教員は(教えるとなった段階で、あるいは教えなければならないかもしれないと思った段階で)一歩深いところで彼らと対さなければなりませんから、そこで、レベルを知ることになるのです、否応なく。それとても、彼らと向き合うことができるかどうかに係っていますが。

何かを「教える」には、先に相手のレベルが判らなければなりません。だから、話したり、書かせたり、読ませたりして、レベルを知ろうとします。そして初めて、「ガーン」となるのです。ペラペラ話せていたからできるだろうと思っていたら、何も考えてることができなかった。ただテキトーにペラペラしゃべっていただけだった。きちんと学校に来ないし、それを注意しても、何とも思っていない(これを想像力の欠如と言い放つことはできません。もっと違う、たとえば「しつけ」とか、「習慣の問題」かもしれないのです)…。

とはいえ、真面に一生懸命勉強し、きちんとした生活を送ることができる学生しなら、大学四年間というのは、有り難い期間で、頑張っているうちに、卒業する頃には、いっぱしの大卒者になっていてくれるものなのです。

大学に入ることが無駄にならない…そういう学生が一人でも増えてくれればいいのだがと、今年もそう思っています。

日々是好日
コメント
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