日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「夏休みも後半」。「『メモを取る』、『毎日、手を動かす(漢字や仮名を書く)』ことの必要性」。

2013-08-23 10:34:23 | 日本語の授業
 現金なものです。「今日は、少し暑いな」と思ったら、蝉の声が聞こえてきました。もちろん、秋の虫達の声の、その隙間から、チロリチロリといった感じなのですけれども。昨日はいったいどこに潜んでいたのでしょう。あれ(昨日の涼しさ)で力尽きて、ポトリと落ちたというのでは、困ります。だって、暑さはまだまだ続いているのですもの。まだまだ、秋の蟬というには早すぎる…。

 とはいえ、「ノウゼンカズラ(凌霄花)」の花の数が随分減ってきました。もうそろそろお仕舞いかなといったところ。今年の残暑は、ズリズリと少しずつ後ずさりしながらも、それでもずっと続いていくような気配がします。

 さて、夏休みです。

 学生達も「休む」ということに、そろそろ疲れてきているのではないでしょうか。

 最初の頃は、「ああ、学校に行かなくてもいいんだ、楽ちん、楽ちん。宿題もないんだ、楽ちん、楽ちん。ゆっくり寝られるんだ、ごろごろ」と、のんびり構えていた学生達(アルバイトは続けています)も、それが3週間も過ぎてしまいますと、「これは、ちょっと、まずいかな」と、思いはじめている…のではないかしらん。

 まあ、希望的観測かもしれないんですけれども。

 昨日、学校へ来たのは、2名。1名は宿題を持って。もう一面は8月分の寮費を持って。

 宿題を少しでもやって来たのはいいとして、とは言いながら、もうノートの文字が崩れていましたから、きっと、「今日、提出だったんだ」と、朝、気がついて、慌てて、書いてきたのでしょう。

 「文字」というのは、おもしろいもので、「初級」段階であったら、「ひらがな」と「カタカナ」なのですけれども、それでも、ちょっと書いていないと、「ひらがな」が「ひらがな」の態を為していない、「カタカナ」が「カタカナ」の態を為していないようなものになってしまうのです。

 それが、「中級」も後半になっていますと、「漢字」も「カタカナ」も「ひらがな」も、おかしな(字)形になり、しかも、三者が皆、適当に散らばりながらも、自己主張していますから、それが不調和になって、読んでいくのにも苦労するのです。字が下手だからというわけでなく、日本の「文字」らしくなくなってしまい、それで、見にくいのです。

 休み前は、(彼らの字でも)自然に、読んでいけたのが、(休み中、手を動かしていないと)休みが明けた頃には、もう、見るだけで疲れてしまうような代物になってしまう。

 「手を動かす(字を書く)」習慣のない人たちに、書かせることの如何に難しいことか。

 これは、いつも授業の時は「教師の顔だけ見るように」躾けられて育ってきた人達が、「非漢字圏」の学生達に多いからなのでしょう。その人達に「メモを取れ」とか、「ノートに写せ」とか言っても、言われたからするくらいの感じで、覚えるためにするようにはならないのです。

 メモを取らないのも、どうも「覚えられるからいい」くらいに考えているようで、(これも彼らのこれまでの世界が如何に狭かったかを物語っているのでしょうが)それだけでは対処できないよと言っても、なかなかわかってくれません。それで、「初級」のうちから、「メモを取れ。聞いてわかっても、簡単でも、とにかくメモを取れ」を、繰り返しているのですが、これが難しい。もちろん、こんなことを言わなくてもできる学生はいます。けれども、そういう習慣がついていない人の方が多いのです。

 「人は、一度にたくさんのことは覚えられない。だから、こういう習慣は、学校の勉強の時だけではなく、アルバイトの時にも役に立つ」という言い方も、半年くらい経てば少しはわかってくるのでしょうが、それでも、メモを取ろうとしない人がいます。

 ヒアリングのテストなのに、教師の顔をじっと見ているだけという学生の何と多いことか。鉛筆を持ちなさいと言っても、持つだけで何も書かない。多分、何をメモしたらいいのかよくわからないのでしょう。「いつ、だれが、どうした」めいたことを黒板に書いておき、何をメモすればいいかを自然に覚えされるしか手はないと思うのですが、これもまた難しい。

 「メモ」についても、「手を動かす(書く)」ことについても、彼我の差の何と大きいことか。

 中国に留学していた時、アフリカから来ていた学生が(この人は外務省派遣で、大人でしたから、それがわかり、努力していたのでしょうけれども)、熱を出し、二日休んだことがあったのです。それなのに、翌日、赤い顔をして学校に来たので、「病気なんだろう。どうして休んでいないのだ」と、クラスメートの日本人が聞いたのですが、頭に来たという顔になって「お前達は日本人だから書かなくてもいいのだろう。でも、自分は一日でも書かないと、直ぐに漢字を忘れてしまうのだ」。

 その時は、へえ、そうなんだと思っただけだったのですが、いざ、日本語を教えるようになると、それが本当だということがよくわかるようになりました。

 学生達は、一日でも書かないと、本当に、直ぐに書けなくなってしまうのです。特に、まだ二年くらいしか勉強していない学生は、その必要大です。もっとも、既習の漢字を全部書かなければならないというわけではありません。書いて、手に忘れさせないようにする必要があるのです。古人は「漢字は手で覚える。頭で覚えるのではない」と言いました。

 日本でも、以前、「漢字を一つ一つ覚えるのは愚かしいことだ。全部アルファベットにしてしまえば、漢字を覚えるための時間と労力を別の方面に向けることができる」と提唱した人がいました。もちろん、それに賛同する多くの人達がいました。けれども、日本には、今、「ひらがな」も「カタカナ」も「漢字」も残っています。もとより「漢字」の数も、「ひらがな」や「カタカナ」の数も少なくなりましたが、「漢字」がただの伝達の道具としてだけではなく、他の「脳」の発達にも関係していることがわかってから、日本では「漢字を使うのはやめよう」という人達は少なくなってきているようです。

 何でもかんでも「合理化」というのは、もう流行らなくなったのです。

 外国人学生が、日本語は「面倒だ」というのはわかりますけれども、日本人が「面倒だ」と思ってはいけないのです。もちろん、数万の漢字を覚えなければならないというわけではなく、ある程度の漢字がわかり、新聞が読める程度であったら十分です。それ以上を求める人は、趣味でそれをやり(自由にすることができます。いくらでもそういう本が出ていますし、インターネットで調べることもできますから)、人に強制すべきではないのでしょう。

日々是好日
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