吉野屋の全面広告でした、24時間牛丼だしますと。おお、そうでした、すっかりニュースソース性を失って私達の目の前から姿を消していましたが、狂牛病騒ぎは決着ついたようですねぇ。ようです、そうしか言えないところです。ニュースソース性なんてのは誰が判断することですか。全てはマスコミの恣意でしかないのです。いわゆる大本営発表、新華社通信発表の類。「目の前から姿を消す」なんて書きましたが、そんな天の配剤みたいな受け身な出来事ではなく単に新聞がTVが取り上げなくなっただけのことですから。そしてこんな広告ではっと思い出す。そういや狂牛病の水際作戦はどうなったのよ?危ない部分(脊髄やら脳やら)が混在していたから輸入される全部の肉を検査しろなんて、日本にしては珍しい強気な態度でしたよね、あれからどうなったんでしょうか。潮が引くような消え方でしたね。アメリカがちゃんとやるようになったから、でしょうか。それとも政治的決着(なぁなぁでズルズル)されたんでしょうか。今までの全ての公害やら食品事件と同じ轍を踏むしかないのでしょうね、誰かが死ぬまで使い続ける。何人かが続けてプリオン病(狂牛病)にかかって、何人かが死んで、やっぱりちゃんとやらにゃぁいかんぞなんてね。だから、吉野屋の営業再開なんて映像報道の前に厚労省が国民に向かってもう安全ですからとアナウンスすべきなんですよね。何だか危ないことです(鄙の当地には吉野屋はじめ同業の牛丼屋がありませんから実感のないことではあるのですが)。
何だか新聞は高校野球を妙に煽ります。山口からは二校出ます、あの池永の下関商業と新進の華陵高校。後者は21世紀枠だそうです。例によって神風記事です、行け行け!きっといけるぞ!って。一回戦で負けたら負けたで、よくやった、夏があるぞ!ってね。いい加減にしろって言うんです。もうこの手の煽りには辟易です、勝手にやってくれですが、もっとも地元や卒業生達は嬉しいことでしょう、その気持ちは十分に理解します。いえ、そんなことではなくて、華陵高校には女子部員がいるんだそうです。今時女子の野球部員は珍しくないんでしょうが、この子が公式戦はいざ知らず、甲子園球場での練習にも参加できないんですって、そういう規則なんだそうです。まぁ、なんと馬鹿馬鹿しいこといつまでも残しているんですねぇってことです。単純に可哀想なことです、きっとこの子も男連中と同じように甲子園に憧れているんでしょうにね。「体力差がある」から公式戦に出場できないんだそうです、練習試合には出られるんだそうです。体力差ねぇ、そんなこと誰でも分かってますわね、でもそれこそ今時のことです、体のこなしやスピードが男に遜色ない娘がたくさんいます。そりゃぁ日ハムの中田のような偉丈夫には敵わないでしょうし、ホームランが打てるなんて端から思っちゃぁいません、でもゴロ捌いたりフライ取ったりにどういう差があるって言うんでしょうね。いえ、女子がバッターボックスに立てばやはり男のピッチャーはそれなりに考えるでしょう、それが緊迫した場面であればあるだけ困ることでしょうね、そういう「余計さ」を高野連は嫌っているのでしょう、分からぬ事ではないですが、でももう時代が回っています、体制側主催者側が変わらねばならぬ頃でしょうね。断っておきますが、男女平等だから、じゃないですよ。こういう排除が時代にそぐわないからです。私達の意識が変わってきているのです、私達の年代の身に染みついている男の女のという差異は、今の高校生連中にはないことなんでしょう。きっかけは男女平等を唱える、男女雇用機会均等などという政治的イデオロギー的運動であったにせよ、男と女の差なんて、少なくとも能力や才能については全くないと私達は知りました、大きな収穫だったと思います。私達の親の世代には考えられなかったことでしょう。背の高い低い、重たいものを持ち上げられるできない、大声を出す出さない、暴力振るう振るわないの差があるだけです。ああ、子を産む産まないの差も。ま、こんなに極端に絞り言い切る必要もないことで、男女差(役割の違い)は生活人生の場面場面でそれぞれに設定されていること、それは夫婦毎に存在する基準でしょう、職場や環境毎に変化する基準です。一つに括ろうとするからああでもないこうでもないってことになります、またフェニミスト達に隙を与える事になっています。とまれ、男の女のという区別は確実になくなっています、無理のないところなら許して(緩和して)いけばいいことですわね。女子部員のように、自ら男にまじって同じ練習している者を排除する必要はないでしょう。怪我?それこそこの娘の好んでやっていることです、第一怪我したってこの娘が文句など言いませんよ(もっとも、親は知りません。どんな親が後ろにいるのかは定かではないことですから)。ただしその昔見た運動会での女の騎馬戦とか棒倒しとかは可哀想でしたね、明らかにあんなことやりたくないって娘がたくさんいましたから(うちの娘達は先頭切って飛びかかっていくタイプでした、これはこれで苦笑モノでしたが)。憧れの甲子園で同じユニフォーム着てノック受けさせてやれよ。そう思いました。彼女は制服着てプラカードもって開会式の入場式には一緒に歩けるそうです。せめてそれくらいは当然と思うことでした。高野連の石頭達、金にまみれるところはええ加減なこと、自分の支配下にある者達には居丈高。女子部員対石頭爺じぃ。どうなりましょうか。
何だか新聞は高校野球を妙に煽ります。山口からは二校出ます、あの池永の下関商業と新進の華陵高校。後者は21世紀枠だそうです。例によって神風記事です、行け行け!きっといけるぞ!って。一回戦で負けたら負けたで、よくやった、夏があるぞ!ってね。いい加減にしろって言うんです。もうこの手の煽りには辟易です、勝手にやってくれですが、もっとも地元や卒業生達は嬉しいことでしょう、その気持ちは十分に理解します。いえ、そんなことではなくて、華陵高校には女子部員がいるんだそうです。今時女子の野球部員は珍しくないんでしょうが、この子が公式戦はいざ知らず、甲子園球場での練習にも参加できないんですって、そういう規則なんだそうです。まぁ、なんと馬鹿馬鹿しいこといつまでも残しているんですねぇってことです。単純に可哀想なことです、きっとこの子も男連中と同じように甲子園に憧れているんでしょうにね。「体力差がある」から公式戦に出場できないんだそうです、練習試合には出られるんだそうです。体力差ねぇ、そんなこと誰でも分かってますわね、でもそれこそ今時のことです、体のこなしやスピードが男に遜色ない娘がたくさんいます。そりゃぁ日ハムの中田のような偉丈夫には敵わないでしょうし、ホームランが打てるなんて端から思っちゃぁいません、でもゴロ捌いたりフライ取ったりにどういう差があるって言うんでしょうね。いえ、女子がバッターボックスに立てばやはり男のピッチャーはそれなりに考えるでしょう、それが緊迫した場面であればあるだけ困ることでしょうね、そういう「余計さ」を高野連は嫌っているのでしょう、分からぬ事ではないですが、でももう時代が回っています、体制側主催者側が変わらねばならぬ頃でしょうね。断っておきますが、男女平等だから、じゃないですよ。こういう排除が時代にそぐわないからです。私達の意識が変わってきているのです、私達の年代の身に染みついている男の女のという差異は、今の高校生連中にはないことなんでしょう。きっかけは男女平等を唱える、男女雇用機会均等などという政治的イデオロギー的運動であったにせよ、男と女の差なんて、少なくとも能力や才能については全くないと私達は知りました、大きな収穫だったと思います。私達の親の世代には考えられなかったことでしょう。背の高い低い、重たいものを持ち上げられるできない、大声を出す出さない、暴力振るう振るわないの差があるだけです。ああ、子を産む産まないの差も。ま、こんなに極端に絞り言い切る必要もないことで、男女差(役割の違い)は生活人生の場面場面でそれぞれに設定されていること、それは夫婦毎に存在する基準でしょう、職場や環境毎に変化する基準です。一つに括ろうとするからああでもないこうでもないってことになります、またフェニミスト達に隙を与える事になっています。とまれ、男の女のという区別は確実になくなっています、無理のないところなら許して(緩和して)いけばいいことですわね。女子部員のように、自ら男にまじって同じ練習している者を排除する必要はないでしょう。怪我?それこそこの娘の好んでやっていることです、第一怪我したってこの娘が文句など言いませんよ(もっとも、親は知りません。どんな親が後ろにいるのかは定かではないことですから)。ただしその昔見た運動会での女の騎馬戦とか棒倒しとかは可哀想でしたね、明らかにあんなことやりたくないって娘がたくさんいましたから(うちの娘達は先頭切って飛びかかっていくタイプでした、これはこれで苦笑モノでしたが)。憧れの甲子園で同じユニフォーム着てノック受けさせてやれよ。そう思いました。彼女は制服着てプラカードもって開会式の入場式には一緒に歩けるそうです。せめてそれくらいは当然と思うことでした。高野連の石頭達、金にまみれるところはええ加減なこと、自分の支配下にある者達には居丈高。女子部員対石頭爺じぃ。どうなりましょうか。