拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

BWV12(ロ短調ミサのCrucifixus)から過去(ヴィヴァルディ)へ、未来(リスト)へ

2021-05-07 18:40:15 | 音楽

今朝、書いたブログの内容をすぐには思い出せない。ボケたのではない(昨日食べた物を思い出せるかどうかは、ボケたか否かの重要な判断材料だという)。いただいたコメントに私自身の興味が完全に移ってしまったためだ。そうそう思い出した。ハスラーの「私の心は千々に乱れる」は「ウッニャのウニャニャウニャン曲」の原曲である。その「ウッニャのウニャニャウニャン曲」は何でしょう?というクイズを出したのだった。正解は、「バッハのマタイ受難曲」なのだが、「原曲と言えば」ということでU先輩美女から戴いたコメントが、「バッハのミサ曲ロ短調の「Crucifixus」の原曲はカンタータBWV12なのだが、このBWV12にも原曲があって、それはヴィヴァルディの世俗曲だと言うのである。へー!と思っていたら、K澤鍵盤美女からもコメントをいただいた。BWV12を元にリストがオルガン曲とピアノ曲を書いているというのである。そして、K澤鍵盤美女が卒業試験でその曲をお弾きになったというのである。へー!この二つのコメントのおかげで、バッハという「点」が一挙に過去(ヴィヴァルディ)と未来(リスト)に広がって線になった。まことに悦である。お二人に心から感謝します。ところで、そのヴィヴァルディの曲がどういう曲だか私は知らない。さあ、私の雑学魂に火がついた。で、調べましたとも。曲名は「Piango, gemo, sospiro e peno」。あんれまぁ。BWV12の合唱の冒頭の歌詞「Weinen,Klagen,Sorgen,Zagen」と同じでないかい。よし、楽譜を探そう。だが、IMSLP(ネットの無償楽譜のサイト)でいくら探してもない。ないはずである。IMSLPのウィッシュリストに入っていた。つまり、誰か楽譜をあげておくれ、とリクエストが出ている最中である。だが、動画はYoutubeにあった。往年の大歌手テバルディが歌っている(テバルディが歌うほどの名曲ということである)。どれどれ聴いてやろう。でだしはあまり似てない……いや、きたぞ、BWV12とそっくりな部分。これはたしかに原曲だ。比較を明瞭にするために、耳コピで楽譜に起こしてみた。調も三拍子も同じである。ご覧の通り、ヴィヴァルディの曲の中間部分(歌詞を書いた部分)の歌詞をドイツ語に訳して音をそのまま持ってきたのがBWV12の合唱の冒頭部分であった。ただ、BWV12にも台本作家がいる。バッハと台本作家との間でどういう相談があったのだろう。バッハが、ボク、ヴィヴァルディのこの曲を使いたいから、あんた(台本作家)、その歌詞をそのまま訳してね、とか言ったのだろうか。

何の原曲かを当てるクイズ(私の心は千々に乱れ)

2021-05-07 07:22:43 | 音楽

前回、「むすんでひらいて」の原曲(思想家として有名なルソーの作曲したオペラの一節)の楽譜を作って再生したものをアップしたら、「似てない、父親とされた者なら「オレの子じゃない」という」とのコメントをいただいた。おお、それならクイズにすればよかった。「何の原曲でしょう?」というクイズである(「原曲は何でしょう」ではない。その逆である)。よし、そのクイズを他の曲で実行しよう。原曲の素性を明かしておく。ハンス・レオ・ハスラーの世俗曲(恋の歌)で、「わが想いは千々に乱れ」(Mein G'müt ist mir verwirret)である。恋しくて、恋しくて、頭が変になっちゃう、という歌だ。なんだか、「糸を紡ぐグレートヒェン」ぽい。この曲が直接、本日のクイズの解答になるのではない。この曲が、いったんコラールに編曲され、それをウッニャがウニャニャウニャン曲に使ったのである。そのウッニャのウニャニャウニャン曲を当ててほしいのである。クイズのレベルとしては、ド初級。楽譜を起こして、それを再生したものがヒントである。まるで、答を言っているようだ。参考のため、再生のために作った楽譜を貼り付けておく。歌詞は、ホントは3番まであるのだが、1番だけ載せた。以前なら、こういう感じでとりあげた曲は、じゃあ、シュッツの会でやってみよ♪とすぐ歌ったものだが、シュッツの会は相変わらず休止中である。

「むすんでひらいて」の原曲

2021-05-06 21:07:41 | 音楽

前回の記事の「ルソーが『むすんでひらいて』を作曲した」って話は余談のつもりだった。だが、「歌詞を知りたい」「このメロディーは日本で軍歌にも使われた」等のコメントをいただき、私の雑学魂に火がついた。原曲を詳しく知りたい。で、調べた。この曲は、「村の占い師」というオペラの中の一節。それまでオペラでの成功作のなかったルソーがリブレットも自分で書いたこのオペラはパリで初演され、ルイ15世のお気に入りとなった。つまり、結構有名曲。そのためか、楽譜は容易に手に入った。問題の「むすんでひらいて」の元曲は第8場のパントマイムに付けられた曲だという情報を手に楽譜内を捜索。あった。これだ。パントマイム用の弦楽合奏曲で、歌詞は付いていない。「むすんでひらいて」とは似てるっていやあ似てるが、違うところもある。ミュズスコアで楽譜を作って再生したので、お聞き下さいまし。ね?やはり、オペラの中の曲だから、童謡とは異なり、それなりに荘厳だよね。因みに、このオペラは、若いカップルの男が浮気をしてるんではないかと疑った女が村の占い師に相談し、なんだかんだの末に仲直りしてめでたしめでたしという物語。登場人物はその三人だけである。再生用に作った楽譜を下に貼り付けたので、詳しく見たい方はどうぞ。


人妻から性の手ほどきを受けた人権思想家ルソーは「むすんでひらいて」の作曲者

2021-05-06 09:28:45 | 音楽
「ベン・ハー」で描かれる兵士は横暴そのもの。奴隷に対してはもとより市民に対しても、例えば、ゴルゴタの丘へ向かう途中これ以上十字架を担うことができなくなったイエスに代わって十字架をかつがせられたシモンは、沿道にいたところを無理矢理引っ張り出されたものである。だが、時代が今から2000年前であれば、これは当然のことだろう。人権思想の「じ」の字もない時代である。天賦人権思想が生まれたのは17世紀。初めてその思想を憲法に取り入れたのは18世紀後半、独立してたのアメリカである。長い人間の歴史からすればつい最近のこと。だから、いまだに差別は残っている。2000年前の他国の兵隊のことを言っていられない。ゲゲゲの鬼太郎でおなじみの水木しげるの自伝漫画には、第二次大戦で兵隊にとられた水木しげるが上官や先輩から鉄拳繊細をくらうシーンがこれでもか、と出てくる。「天皇陛下万歳」とか言うんだったら天皇陛下からお預かりした大事な兵員にこういう仕打ちをしてはいかんだろうと思う。思えば、私が生まれたのは戦後、たったの13年しか経ってない頃。当時は、役所の窓口も怖かった。今では信じられないだろうが、郵便局は、窓口が怖いベスト3だった。私が今の仕事を始めた頃の法務局も怖かった。そうそう、裁判所に何かの資料を閲覧に行ったときの係員も超怖かった。請求した資料が揃うと「いーじまっ」って呼び捨てで呼ばれた。私、むかっときて、「なんだよー」と答えてやろうと思ったが心の中に止めておいた。次に行ったときも同じおじさんだったが、そのときは、「さん」が付いていて、えらい進歩だと思ったが、やはり口調はおっかなかった。そうそう、当時は銀行(特に財閥系の某銀行)の窓口もえばってた。因みに、こないだのチコちゃんで、預金と貯金の違いはって問題が出て、私、画面のこちら側で、「預金は銀行、貯金は郵便局」と解答して概ね正解だったが、もともと貯金は庶民のためのもので、預金は企業間のためのものという話は新鮮だった。そのように、あっちもこっちも怖かったのであるが、それが急激に変わったのはこの25年くらいだろうか。図書館で借りた本を返したときに「ありがとうございました」とか言われると、ただで読ませてもらったこちらの方が恐縮してしまう。法務局もとっても親切である。余談。人権思想は新しい、と書いたが、飛行機が飛ぶようになったのはもっと新しい。ライト兄弟が初めて有人飛行に成功してからまだ110年も経ってない。それでこの進歩である。目をみはる。それから、人権思想家と言えば必ずその名が挙げられるジャン・ジャック・ルソーに対して、最初に性の手ほどきをしたのは「何とか夫人」である(つまり人妻である)。「バラの騎士」のオクタヴィアンのようである(このときルソー15歳、夫人29歳。「バラの騎士」のオクタヴィアンは17歳、元帥夫人は32歳)。その後も、いろんな女性と関係を持ち、子供も随分できたが、生まれるたびに孤児院に棄てたという。そういう反省から人権思想が生まれたのか、それとも「言うこととやることは違う」のか。そうそう、彼は作曲家でもあり、「むすんでひらいて」の作曲者はルソーである。

イエスのライトモティーフ(ベン・ハー)

2021-05-05 16:38:22 | 音楽
キリスト教のことも、男女の愛のことも知らなかったお子様時代に(男女の愛は今でも分からない)、ベン・ハーで興味を誘ったシーンと言えば、二つのスペクタクル、つまり、ガレー船同士の海戦と、騎馬レースのシーンだったろう。いや、騎馬レースにしたって、今の方がよっぽどいろんなことを思って楽しめてると思う。例えば、ベン・ハーの馬は今日本で注目の白毛だよな、白毛はレースで目立つからどこにベン・ハーがいるかすぐ分かるなとか、仇役の馬は逆に青鹿毛(黒)だなとか、仇役は戦車の車輪にドリルを仕組んでライバル達の車輪を壊すのだが、これって、レースで他者の妨害ばかり考えている「チキチキマシン猛レース」のブラック大魔王と同じだな、で、巡り巡って自分に返ってきて自滅するところも同じなだとか、ベン・ハーが仇役のドリルから逃れるため大きく斜行したせいでその外側を走っていた他の戦車が外ラチならぬ外壁にぶつかるのだが、これ日本の競馬だとベン・ハーに制裁が下るかもしれないなとか、ストップウォッチで測ったらレース時間が9分20秒で日本で長いと言われる春の天皇賞の3倍近くで馬の負担が半端でないなとか、観衆がターバンをまいた人達で現在のドバイでのレースもこんな感じなのかなとか、その観衆については実際に大人数の人(エキストラ)をスタンドに入れてるなぁ、このシーンをぱくったと言われるスターウォーズ第4作(エピソードⅠ)のポッドレースのスタンドの観衆は実は紙で作った人形だったんだよなぁ(スターウォーズ展で実物を見た)とか……。さてさて、この映画のエンディングにアレルヤが歌われる話は前回書いた。実は、このアレルヤは、この映画におけるイエスのライトモティーフ(特定の人に割り当てるメロディー)だった。それは♪シーシレーードレシー、シーシミーーレミシー……というものである。最初に鳴るのは、冒頭のイエス誕生から26年後、野原を歩く若者が遠景で映るシーン。その若者がイエスであることを示すものはなにもない。ただただその音楽で彼がイエスであることが分かるのである。でも、このときはちらっとだけ。本格的に鳴るのは、ガレー船に漕ぎ手として送られるベン・ハーにイエスが水を与えるシーン。逆に、十字架を背負いきれずに倒れるイエスにベン・ハーが水を与えるシーンでも鳴る。そのほか、登場人物が「ナザレの人」を語るときも鳴る。そして、最後の最後、このメロディーに「アレルヤ」の歌詞が付いて鳴り響くのである。

ベン・フル

2021-05-05 09:08:30 | 音楽
BSで、ベン・ハーを放送していた。前回見たのは、何十年か前、受難曲やクリスマス・オラトリオをあまり歌ってなかった時だと思う。なぜなら、今回見てみて、それらが描くシーンがたくさんあることに初めて気づいたから。例えば、この映画の冒頭シーンは、イエス誕生の物語である。夜空が映し出され、その中に異様に輝く星がある。それがつつつーっと移動して止まり、その下界に光を投げかける。それを注視する三人のおじさん。初めて見たとき、まさかこの星のことをUFOとは思わなかったろうが、何だと思ったのだろう。東方の三博士のことも、ただのおじさん達としか思わなかったと思う。馬小屋の中で、生まれたてのイエスの前にかしづく三博士の前に三つの箱が置いてある。おっ、乳香とかだ!と今なら思うが、当時は気にも止めなかったろう。ここまで、解説はなし。欧米の人は言われなくても分かるんだね。その後にベン・ハーの物語が始まる。一つ間違って覚えていた。私、ベン・ハーが捉えられたのは、新総督の列に窓から花瓶を落としたせい、と思っていたが、屋上から瓦を落としたせい、が正解だった。最後にイエスが登場するときは、受難の物語。イエスが十字架を担ぎきれずに倒れると、近くにいた人が代わりにかつがされる。シモンだ。ここも今回初めて気がついた。因みに、イエス(を演じた俳優)の顔は終始映されてない。1967年版の「日本のいちばん長い日」でも昭和天皇の顔は映されてなかったよな。これが2015年版になると、昭和天皇役の本木雅弘がはっきり映ってるそうだ(まだ見てない)。前回の大河で坂東玉三郎が演じた天皇ははっきり拝見させていただきました。イエスについても、2004年の「パッション」では痛々しいほどイエスの全貌が描かれていた(Iさん、すみません、監督ケヴィン・コスナーって言ったけど、メル・ギブソンでした)。ベン・ハーに戻る。ラストに流れる音楽はハ(ア)レルヤ。これも気づかなかった。だが、こういうこともあるよって話をしておくと、「汚れなき悪戯」(「禁じられた遊び」ではない)って映画がある。修道院で育てられた少年が、屋根裏のイエス像と仲良くなって、母のいる天に召される。そして、その修道院に巡礼の列ができる。このエンディングに流れる音楽が、あるときテレビで見たときはバッハのカンタータ第4番の第1曲の「ハレルヤ」だった。最後、「ハ、レールーヤーーー」と「fin」がぴたっと重なって感動的だった。ところが、次にテレビで見たときは、全く違う音楽に差し替えられていた。いったいどっちが本当なのか、オリジナルなのかは不明である。とにかく、映画は何度でも見るものである。本は何度でも読むものである。音楽は何度でも聴くものである。どうでもいいが、「ベン・ハー」は「Ben Hur」だってことも初めて知った。すると「ハー」を「ハアー」と発音してはいけなかった。「ファー」である。ラテン系の人は「フル」と読むかもしれない。

♪サーーーーンクトゥス(チャチャチャチャチャチャチャ)

2021-05-04 20:03:46 | 音楽
モーツァルトのレクイエムの通唱会に、主にクラリネットで、一部をヴァイオリンで参加。「主にクラリネットで」と書いたが、たしかにこの曲、クラリネットは相当美味しいが、今、告白する。実は、今日私が一番演奏したかったのは、サンクトゥスのヴァイオリンである(括弧内がヴァイオリン)♪サーーーーンクトゥス(チャチャチャチャチャチャチャ)、サーーーーンクトゥス(チャチャチャチャチャチャチャ)、サーーーーンクトゥス(チャチャチャチャチャチャチャ、チャチャチャチャ、チャチャチャチャ、チャチャチャチャ、チャチャチャチャ、チャチャチャチャチャチャチャチャ、チャンチャンチャーン)このチャチャチャチャを思いっきり弾きたかった。そして次。長い、低いCの音で♪ツェー、ツェーツェーと始まって(これもいい)、すぐにまたチャチャチャチャ(これもいい)。これが弾けて、これだけで私は大満足。主宰者の方、ご一緒してくださった皆様、夢がかないました。本当にありがとうございました。終わった後、秘密の会合を持たずに、とっとと帰って、今、家。喉がカラカラ。みんなには良かったかも。もし、秘密の会合なんかしてたら、みんな私にこの話を何度も何度も聞かされて閉口したろうから。

黄金の花束

2021-05-03 18:31:00 | 日記
好きな女ができた。それが誰だかは後で書くとして、とりあえず別の話。列の一番前に立ちたがらない人がいる。一番前に押し出されたとたん「いやん」と言って後ろの方にもぐりこむ人。馬にもいるらしい。「黄金の花束」という素敵な名前の付いた「カレンブーケドール」は、まっこと偉い牝馬である。これまで重賞レースで勝ったことは一度もない。この点は、わが愛しのジェンティルドンナ(GⅠ7勝)や一世を風靡したアーモンドアイ(GⅠ9勝)には相当見劣りがする。だが、ジェンティルドンナは重馬場が苦手だったし、アーモンドアイは、得意な競馬場が決まっていた。ところが、カレンブーケドールときたら、どこの競馬場でも、どんな馬場でも、どの距離でも、大体2,3着に来る。これはすごいことである。特に、昨日の天皇賞は、距離が3200メートルと長く、何十年も牝馬が勝ったことがないどころか、出走すらほとんどなかった。「牝馬の時代」と言われている現代においてもそうである。そんな中、出走し、「3200メートルは牝馬には無理」という声をもろともせず、3着に入った(ワイドが当たった)。最後の直線で先頭に立ったときなどは、もしかすると優勝!?とすら思わせた。実力は十分。いつ勝ってもおかしくない。なのに2,3着ばかり。解説をしてた元騎手のアンカツさんが「勝ちたくないんじゃないか」と言っていた。で、冒頭の「一番前がきらいな人」の話に通じるのである。ということで、好きになった女とはカレンブーケドールである。そう言えば、マラソンは、かつて(人間の)女子には過酷すぎる、無理と言われていた。初めてオリンピック種目になったのは、よく覚えている、ロス五輪の時だ。優勝したのはベノイトだった。かっこよかった。へー、今Wikiで見たら、私の一個上だわ。練習中に、いきなりコースをはずれて茂みに入り、ジャムにするためにブルーベリーを摘むような人なんだって。

スローライフ

2021-05-03 09:20:09 | 日記
うちからちょっこし歩くとそこにはお上(おかみ)がまたいではならぬと命じた禁断の境=県境がある(トゥーランドットが命じたのは「寝てはならぬ」である)。その境を超えると、そこは緊急時代宣言下であっても天下の悪法=禁酒法が施行されない地域……であったはずが、なんとここにも帝国の魔の手が及び、今はお酒が飲めない。テレビで誰かが「科学的根拠に基づいた感染対策を怠ったせいで、営業の自粛などというとんでもない人権侵害をするはめになった」と言っていた。珍しく賛成である。「珍しく」というのは、私は、テレビのコメンテーターの言うことをほとんど信用していないからである。開いた口がふさがらなかったのは、「紀州のドンファン」殺害容疑で元妻が逮捕された件で、某タレントが「多分この人がやったんでしょう」と言ったこと。人権を重んじるなら「推定無罪」でなければならない。犯人と決めつけるような発言は、たとえ心の中でそう思っても、公共の電波で言ってはならない。しかも、この人は長年報道番組のキャスターを務めた人である。いくらスーツを着て神妙の顔をしていても、お里が知れたこの人の発言を今後心して聞くことはないだろう。こんな案配だから、テレビをほとんど見なくなった。大好きだった朝ドラもしかり。だが、「おちょやん」はここにきて試聴を再開した。きっかけは亭主の不倫。私は不倫が大好きである(=不倫ものを試聴するのが大好きである)。朝ドラと言えば、「カーネーション」に、「大日本婦人会」とか書いたたすきをかけたご婦人三人組が「見回り隊」よろしく戦時下の街をかっぽし、糸子の店にも来て「ぜいたくはやめろ」「ミシンを供出しろ」と強要するシーンがあった。まさに自粛警察である。お上の権威をかさにもっともらしいことを言って優越感に浸りたい人間は、いつの世にもいたのだな。外だけではない。敵は家内にもいる。今、私が戦っている相手はパソコンである。ウィンドウズ10搭載機に替えてから2年経つが、ウィンドウズ7時代と比べて明らかにパフォーマンスは低下した。例えば文字を打つにしても、変換が遅い以前に、入力したカナがしばらく画面に出てこない。処理中を表す丸いくるくるが出ればまだ待つ気になるが、それさえも出ない。しかも、よく昼寝をする。作業をしばらく中断して、戻ってきて作業をしようとすると「反応してません」の表示が出る。とにかく、ぼーっとしている。チコちゃんに怒られること必至である。だが、何とか付き合わなければならない。相手がぼーっとしてるんだったら、こちらもぼーっとしてみようか。ということで、瞬時の反応を求めないことにした。キーボードをうつ。数秒待つ。カナが表示される。変換ボタンを押して数秒待つ。変換結果が現れる。このテンポ感を当然のものとして作業をするとあまりカリカリしなくなった。スローライフも悪くない……か。

転太郎/ユーバーレーベン

2021-05-02 11:12:40 | 日記
弦子は大丈夫だったが、転太郎はパンクした。多分、背負わせた斤量のせいである(斤量=競馬で馬が背負う重量。ハンデ戦では強い馬は重い斤量を背負わさられる)。昨日、駅に向かうとき転太郎が背負った荷物は、O子とB子と楽譜が入ったバッグと弦子を背負った私。これはかなりの重量。転太郎から降りて、転太郎が背負っていた重量を私が一身に受けたとき、私が馬で、今レースをしたら負けると思ったもん。やはり競馬で斤量は馬鹿にできない。転太郎のパンクに気づいたのは、帰りに、駅近くの駐輪場から引き出したとき。さて、ここで、私は二択を迫られた。選択肢その1。転太郎を駐輪場に戻して、雨もちびりちびり降ってるし、荷物も重いからタクシーで帰って、明日とりに来て、駅近くの自転車屋で修理して乗って帰る。その2。そのまま転太郎を40分押して家まで帰る。私は2を選択した。雨も小降りだし(ドイツでは、このくらいの雨だったら傘などささない)、がんばって家まで持って帰れば、明日、家の近くのホームセンターで修理ができる。その結果は?途中から雨が本降りになった(私は水もしたたるいい男になった)。そして、一夜明けて家の近くのホームセンターに行ったら、連休明けまで修理担当者がいないので「お預かり」になった。今回の選択は失敗。こういうこともある。それに失敗とは限らない。もし、1を選んで、今日とりに行ったら、雹に当たって死ぬかもしれない。因みに、パンクした自転車に乗ってはいけないのと同様、骨折した馬(自転車同様パンクした、という表現を使う)に乗ってはいけない。騎手は馬の様子がおかしいと思ったらすぐ下馬する。それだけ、サラブレッドは繊細である。「ユーバーレーベン」という馬がいる。ドイツ語なので、応援しているのだが、「生き残り」という馬名から受ける感じは複雑である。ということで、今日は天皇賞。まずは、全馬無事に回ってきてほしい、というのが一番である。

丈夫な弦子

2021-05-01 23:22:59 | 音楽
だから私を調子に乗せてはいけない。暴走は止まらず、とうとう、O子を連れてソロ・コーナーに出てしまった。曲は、映画「ロミオとジュリエット」(オリヴィア・ハッセーが出てたヤツ)から(作曲:ニーノ・ロータ)。家で試したときは、中間部から戻ってくるところでヘロヘロになった。どうしよう。そうだ!名案(とこの時は思った)を思いついた。中間部から戻ってきたところで歌にしよう。実は、中学1年んときこの映画を見て、サントラ盤を買って、英語の歌詞で随分歌っていた。そのとき以来である。うーんと甘く、ささやくように歌おう。すると、聞いた美女たちは、イージマさんたらお釜のカウンターテナーだと思ってたら、こんなに甘い歌を歌える「男」だったのね、と見直してくれるに違いない。そして、何人もの美女が私に告るのである。だが、私は「ごめん、ボクは道ならぬ恋をしているので、あなたの愛に応えることはできない。来世で一緒になろうね」と言って襟を高く立てて立ち去るである(この一文を信用する人は一人もいないことは分かっている。誰も信用しないのなら、私は嘘つきではないことになる)。事の顛末は以下の通り。まず、しょっぱなで音がはずれる。いきなり想定外である。最初からやり直す。中間部までは、最低限、止まらないで来た。いよいよ歌への切り替え。ここで事故発生。オーボエは息が余る楽器である。歌に切り替えたとき、体の中には大量の空気が余っていた。それを怒濤のように吐き出した瞬間が歌の出だしである。甘く切ないはずの歌が、♪ビルーの街ーにガオー状態になってしまった。まるで、お笑い隠し芸大会である。さあ、ここまではよくある話。私が最低の父親になるのはここからである。私はこの顛末をすべてO子のせいにし、O子に禁錮10年の刑を言い渡した(バッグの奥底に押し込めた)。だが、すぐ反省した。O子は悪くない、悪いのは私だ。家に帰ったらすぐ釈放するからね。この時点で、私はまだ最低の父親になってない。いよいよここからである。会場には弦子も連れてきていた。ちょっと気が向いたので、スプリング・ソナタの出だしをちろっと弾いて思い出した。そうだ、私はこの曲をI美女のピアノで弾くんだった。たしか、Facebook上のコメントでした約束だから、これは公約である。なのに、ここのところ、他の娘にかかりきりで、スプリング・ソナタの練習は数か月していなかった。心より反省。これからは、ペッ子とF子とO子との面会は一日一回5分にする。あとの時間は、弦子(と鞍子たち)との練習にあてよう。ごめんよ、弦子、家に帰ったらすぐなでなでしてあげるからね……と言って帰ろうとした次の瞬間、弦子は床に倒れていた。ケースの口が開いていて、そこからこぼれ落ちたのだ。つ、つるこー、大丈夫かー(そう、「げんこ」ではなく「つるこ」である)。だが、弦子は擦り傷一つ負わなかった。飼い主……じゃない、猫じゃあるまいし……父(丈夫だけが取り柄)に似て丈夫な子だった。良かった。だが、告白しよう。私は、ここで、一瞬とんでもないことを考えた(それがゆえに、今宵、私は最低の父親に成り下がったのである)。もし、弦子が再起不能だったら弦代(つるよ)を家に迎えよう。弦子の10倍以上出して、ええとこの娘の弦代を迎えよう……そんなことを考えたのである。父親の風上にもおけない。ごめんね、弦子、父は大いに反省するからね。もし、弦代が来ても弦子のことも絶対大事にするからね……って、なんだ、やっぱ弦代は来るかも知れないのか。だってさ、弦子が姉妹が欲しいっていうから……こういうウソを大人はつきがち。実は、だいぶ前から弦代のことを考えている。酔っ払って銀座を歩いているときなんざ、その勢いで某楽器店に入ってお奨めを聞いたくらいである。次に酔っ払って銀座を歩いたとき、そのときこそ弦子の妹を連れて帰る日かもしれない。

悪代官の「あ~れ~」がバッハの「Singet」につながる今回のお話

2021-05-01 07:12:12 | 音楽
チコちゃんで、目黒祐樹さんが、「あ~れ~」をやっておられた。長い俳優生活の中で初めてと言って、喜んでおられた。念のために言うと、目黒さんが「あ~れ~」と言ったのではない。悪代官が女性の帯を引っ張る。すると、女性がコマのようにくるくる回って身ぐるみがはがされる。そのとき女性が発するのが「あ~れ~」である。すなわち、「あ~れ~をする」=「女性の帯を引っ張る」である。この場合の「あ~れ~」をドイツ語で表記すると「Aale」。「うなぎ」の複数形である。だが、うなぎ大好きぃ♪と言って、ドイツに行って「アール」を連呼するのはやめておいた方がいいかもしれない。この言葉には下ネタの意味もあるから。因みに、私が「うなぎ」で思い出すのは二本の映画。一つは今村昌平監督が二度目のカンヌの大賞を受賞した作品。役所広司さんが元受刑者の役をやっていた。その点で、最近の話題作「素晴らしき世界」と相通じる。もう一本はドイツ映画の「ブリキの太鼓」。情事の際、服をぬぐ時間も惜しいとばかりに間男と抱き合う主人公の少年の母がうなぎをむしゃむしゃ食べるシーンが印象的だった。因みに、「うなぎ」にも役所さんと清水美沙さんの濡れ場がある(今村監督が最初にパルムドールを受賞した「楢山節考」も「生殖」がテーマの一つだった)。「あ~れ~」に戻る。「あ~れ~」ではなく「アルレ」と言えば、第九の「すべての人は兄弟になる」の「Alle Menschen」の「Alle」(すべての)である。なお、「All」の語尾が常に「e」になるわけではない。例えば、「Alles was Odem hat,lobe den Herrn」(息ある者はすべて主を称えよ)の「all」は「was」にかかるので「Alles」である。因みに、この句は、バッハのモテットの1番(Singet)の最後の部分の歌詞。かっこいいねぇ、歌いたいねぇ。歌えるよー!歌いまくる会で、ある月のお題がソロ・カンタータになったとき、もちろんそのソロがどのパートかに関係なく、みんなで歌ってよいのだが、でも、本来の自分のパートを歌いたいと言う人のために、そういう日はバッハのモテットとかかを抱き合わせる。その「抱き合わせ作品」を「Singet」にだってできるわけである。