拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

クライバーはルメール、ベルリン・フィルはアーモンドアイ

2021-05-19 22:34:39 | 音楽
大人しく寝て、明日、猫のことを書こうと思っていた。あーそれなのに。クライバーが指揮するベルリン・フィルのブラームスの4番を聴いて超興奮して、寝てたパソコンをたたき起こして今キーボードを打っている。それは、クライバーがベルリン・フィルを2回目に指揮したコンサートであった。この超大物同士の組合せは2回だけ。その2回目の顔合わせの際、クライバーは、ベルリン・フィルのメンブラに対して、「私は、まず皆さんの『乗り方』から勉強しなければなりません」などとしおらしい態度(似合わない?)で挑んだんだそうだ(当時、FM雑誌が報じていた)。その録音を今聴くことができる。これはもう圧倒的な、超弩級な演奏である。乗る方も乗られる方も超一流。言って見れば、ルメールが乗るアーモンドアイである(私的には、グランアレグリアと言いたいところだが、GⅠの勝利数ではまだアーモンドアイがグランアレグリアを凌駕しているのでアーモンドアイにしておく。因みに、私が愛してやまないジェンティルドンナにもルメールは一度乗ったことがある)。かくして、血がたぎっている真っ最中に、お友達のN嬢のFBのコメントが目に入った。N&K(敬称略)で、バッハのドッペル・コンツェルトをコンサートで演奏するというお話である。ますますたぎるわが血潮。よしっ、私もドッペル・コンツェルトを人前で弾くっ。既にI美女との「春」のセッションは公約であるが、それに続く公約を今ここにしよう……い、いかん、酒が切れてきた。たぎっていた血がおさまってきた。とっととこの記事を投稿しなければ二つ目の公約は一晩の幻に終わるやもしれぬ。今、投稿ボタンを押すっ

♪あなたごのみのおとこになりたい

2021-05-19 08:49:32 | 音楽

久しぶりに餃子を作った。パクチー一束丸々使った。と書けば、昨日の朝、どの番組を見ていたか分かる人には分かるというもの。待てよ。パクチーには好き嫌いがある。私は婿入り前である。まだ見ぬ将来の妻がパクチー嫌いでこの記事を読んだらおおごとだ。ちょっとあなた(結婚した後は「あんた」になる)!あたしとパクチーとどっちが大事なのっ?そりゃ君に決まってるとも。もう二度とパクチーは買わない、作らない。♪あなたごのみの、おーとーこーにー、なりーたーいー(元の楽譜は多分「なりーたいー」なんだろうが、演歌歌手はえてして音をずらすものである)。しかし、もし、あたしと競馬とどっちが大事なのっ?と来られたら、これは困る。うぐっ、と答えに詰まる。さらに相手が嵩にきて、あたしとお酒とどっちが大事なのっ?この問いに対しては答えに詰まらない。即答である。私は天国で美女とお茶するよりも地獄で鬼と飲む方を選ぶ人間である。もし、相手方が駆け引きのつもりでこの問いを発したとすればそれは失敗であった。外交交渉もかように難しいものだ。婿入りと言えば、徹子の部屋で(朝だけじゃなく昼もテレビを見てるのかって?一言もございません)、上野さんっていう社会学者が面白いことを言っていた。観光地でカップルを見かけても、「ご夫婦ですか?」と聞いてはいけないのだそうだ。だが、見れば分かるという。楽しそうにしゃべっていればノン夫婦。黙ってれば夫婦だという。そこに私の見解を乗せよう。ノン夫婦にもいろいろある。観光地を取材するテレビカメラに映らないように避けて歩くのが不倫カップル。自ら映り込んで見せびらかすのが合法カップルである。そう言えば、文中の替え歌の元歌(あなたごのみの女になりたい)って誰の何て歌だっけ。そうか、奥村チヨの「恋の奴隷」か。ということで、今回のジャンルは「音楽」。だって、歌ったし。

メンバー

2021-05-18 10:37:14 | 言葉
「夢は夜開く」は宇多田ヒカルのご母堂(前川清の元妻殿)の歌。「買い物は夜する」のはワタクシ。今朝、目が覚めて、昨夜のマジックアワー(一般のマジックアワーは夕暮れの景色が美しい時間帯だが、ワタクシのマジックアワーは晩酌後就寝までの桃源郷を彷徨う時間帯である)に何かポチった記憶がある。思い出した。ヴァイオリンの弓だ(我が家の楽器関係のほとんどは「マジックアワー」にポチったものである)。某美女の助言を聞き、弦子の妹の弦代を家に迎える前に、弦子を磨き上がる作戦の一環である。既に弦は取り替えた。新しい弓子で三段階上手くなった気になっている。つまり、弓子が実際に来るまでが幸福タイムである。さて。あるお友達が「『メンバー』とは不祥事を起こしたジャニーズの名前につく呼び名」と言ったのは至言である。既に解散した超人気グループSも、そのメンバーのうち二人が「メンバー」付きで呼称されたことがある。いずれも、大ニュースになったがはっきり言って微罪であった。Iメンバーは駐禁違反だし、Kメンバーは酔っ払って公園で全裸になっただけ。だが、Iメンバーは、制止した警察官を振り切ろうとして車を発進させた行為が公務執行妨害罪に問われたし、Kメンバーは家宅捜索まで受けた。Kメンバーについては、ときの東京都知事が「そういう気分になることもあるだろう」と理解のあることを言っていたが、そもそもKメンバーをとっつかまえたのはご自分の配下(警視庁)である。話はここからである。「メンバー」の元の意味は、体の四肢である(それが、いつの間にか、集団の一部の意味になった。一個の集団を一体の体と同視したのだろう)。そして、英語の「メンバー」の語源はラテン語の「メンブラ」(membrumの複数形)である。すなわち、先日当ブログに「バッハのマタイの『血潮したたる』の歌詞の元の元は、ブクステフーデの『メンブラ』(イエスの四肢)の元と共通」と書いたが、その「メンブラ」がまさに「メンバー」である。だから、Iメンバー、Kメンバーと言う代わりに、Iメンブラ、Kメンブラと言ってもいいわけである。だが、ブクステフーデの「メンブラ」のことを、英語人は「メンバー」と言ってるかというとそうではないようで、「The Limbs of our Jesus」とのことである。因みに、冒頭の歌の歌詞に、15,16,17と私の人生暗かった……とあるが、18で明かりが見えるのなら3年間の辛抱だ。15,16,17,18,19……60,61,62となると、これはまさに暗いトンネルが人生そのもの。カブトムシの幼虫である。

つんのめるか、百万人の人々よ(第九)/バカボン=Vagabund!?

2021-05-17 11:51:52 | 音楽


相変わらず「千一夜物語」をドイツ語でちびりちびりと読んでたら、男が女に「stürzen」したというシーンが出てきた。「stürzen」を辞書で引いて最初に出てくるのは「倒れる」である。え?男が女に倒れ込んだ?腹上死?そう言えば、第9の歌詞で「Ihr stürzt nieder,Millionen?」てぇのが出てくる。え?百万人が倒れるの?んなワケはない。千一夜物語の「stürzen」は男が女に(「営み」をするため)突進する様子だし(それに続く「女が男の首に抱きついた」でこのことは明らか)、第九は百万人がひざまづく光景である(この部分の敬虔な音楽で明らか)。なぜ「倒れる」が「突進する」「ひざまづく」と同じ言葉なのか。このことについては、ドイツ人の先生が体を張って(ポーズをとって)教えてくれた。つまり、「stürzen」とは、アップした絵のように、膝を折ってつんのめったポーズだというのだ。これはまさにお祈りのときのひざまづくポーズだし、つんのめるように相手に向かえば突進する様となる。NHKマイルカップでゲートを出てつんのめって騎手を落馬させたバスラットレオンもまさに「stürzen」の例である。因みに、上記の千一夜物語で男が「突進」した女は父・宰相が王様にあてがうために家に隠しておいた女奴隷であった。それに息子が手を出したとなればお手討ちは必至!そう言って家族は泣きわめく。ここで一瞬疑問。お話では抱き合った後に人が来てすぐ息子は逃げたことになっている。まだ手をつけてないから何でそんなに心配するんだろう、と思ったのだが、いいやいや手を付けているのである。「抱き合った」は「した」なのだ。馬なりの速さで?そういうことではない(脚の速さのことでもない)。行間を読め、ということなのだ。まだまだワタクシはお子ちゃまである。「千一夜物語」のドイツ語でおおっと思った話をもう一つ。お話の中で、お馬鹿な人が「Vagabund」(ヴァガブント)と形容されていた。え?バカボン?すると、天才バカボンの命名の元はドイツ語?じゃあ、「天才バカボン」をドイツ語で言うと「Genie Vagabund」?想像の翼は一気にここまで広がった。さあ、答合わせだ。おおおおっ、風呂いんで!なんと、同作のWikiのページに、名前の由来について赤塚不二夫自身が「馬鹿なボンボン、バガボンド(vagabond)=放浪者」と言っていたとある。スペルが一箇所違うが(u→o)、「Vagabund」はたしかに放浪者のことであるから、この推論は大当たりであった(昨日の競馬は大はずれ)!じゃあ、ドイツ語のタイトルも当たり?同作のWikiのページにはドイツ語のページもあった。ドイツでも「天才バカボン」は知られているらしい。だが、そこでのタイトルは「Tensai Bakabon」。「Vagabund」との関連性は書いてなかった。ドイツでは、あくまでも「バカボン」と「ヴァガブント」は別物ということらしい。

テルツェット

2021-05-16 08:14:48 | 日記
既に書いたように、我が家の同棲メンバーは、私、ケメ子、ワサビである。三重唱(テルツェット)である。いや、ケメ子とワサビは私の取り合いで対立しているから、協奏曲かもしれない(私は、通奏低音)。さあ、ここに人間の女性が入って来たとする(妄想)。すると、四重唱(クァルテット)か?はたまたコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)か?そうはならないだろう。多分、新たなリヴァーレの登場にケメ子とワサビは結託するだろう。だから、三人でもテルツェット、四人でもテルツェットである。因みに、テルツェットという馬が今日走る。競馬は馬一頭と騎手一人で走るのになぜテルツェットなのかは知らない。だが、「3」という数字で以前からの疑問が再燃した。ヨーロッパの人が三拍子が得意なのは騎馬文化だから、という(対して、日本は農耕民族だから2拍子が得意)。だが、馬の脚は4本。4本脚でなぜ3拍子なのだろう。これが疑問であった。馬が駆ける様子をイメージしてみる。パ|カッ、パ|カッ、パ|カッ、パ|カッ。おお!(フロインデ!)タタタ|タタタ|タタタ|タタタで三拍子だ!長年の疑問があっさり解けてしまった。ということで、テルツェットの馬券を買った。来るかどうか分からない馬を馬名で買うのは、強迫観念によるものである。引退したが、ショウナンバッハも私にとっては因果な馬だった。「バッハ」だから買わずにはいられなかった。

優しさが怖いワケ

2021-05-15 19:59:15 | 日記
「神田川」のことを書いたついでだ。この際、疑問・感想を一挙に吐き出してしまおう。この歌の作詞をした人(男性)は早大時代に実際に同棲をしていて、そのときの経験を詩にしたそうだが、一人称は女性である。すなわち、相手方の女性の立場になって、思い出を綴ったものである。だから、「待たされた」と書いた人が実際は相手を待たせていたのである。その待たせた理由というのが、その銭湯では鯉を飼っていて、その鯉にエサをやっていた、ということだそうだ(史実)。鯉へのエサやりで待たされて、「洗い髪が芯まで冷え」たのだからたまったものではない。風邪をひいたらどうする、って話である。ところで、その「待たされた」ってとこ、音の付け方のせいで「まあたあされた」と聞こえる。子供の頃、ここんとこを聴いて、「待たされた」ようでもあり、「まったされた」ようでもありで、いまいちピンと来なかった。両者は似ているようで微妙に意味が違うと思う。「待たされた」は待ち人がなかなか現れないのに対して、「まったされた」はやろうと思っているのを止められたイメージである。とか言いつついよいよ曲も最終盤。歌詞の最後で「ただあなたの優しさが怖かった」と言っている。これが最大の疑問である。どういう男が好きか聞かれて少なからぬ女性が「優しい男が好き」と言う。なのに、優しさが怖いとはどういうことだ。想像(妄想)してみた。その1。優しい顔をして、ホントは私を外国に売り飛ばそうとしてるのかもしれない。だから怖い。その2。こんなに優しくしてくれるのに自分は浮気をしている。最後の審判できっと神様に怒られる。だから怖い。その3。優しい人に限って怒ると怖い。だから、自分の浮気がばれたときが怖い。その4。優しそうな顔をしているけど、よく見ると目が怖い等々……こういう妄想しかできない自分が怖い。まっことワタクシはダメンズ。だが、女性の中には、好きなタイプを聞かれて「ダメンズ」と言う人がいるらしい。朗報である。世のダメンズウォーカーに超お奨めの物件がある。それはワタクシである。

神田川のヴァイオリン

2021-05-15 09:04:00 | 音楽
似た感じのさだまさしと南こうせつのうちヴァイオリンを弾くのはさだまさしである。ヴァイオリニストになるために子供の時分に上京したって言うんだから本物である。だが、南こうせつにもヴァイオリンのイメージがあるのは「神田川」のイントロとサビで切々と歌うヴァイオリンのせいだろう。だが、この曲との出会いは最悪だった。中学3年のある日、クラスメイトが発売されたばかりの歌謡曲のレコードを学校に持ってきた。プレーヤーは音楽室にある。だが、授業以外では普通は使えない。そのとき誰かが、私が頼めば音楽の先生の覚えがめでたいから使わせてくれるんではないか、と言い出した。それがクラスの総意になった。それで、しぶしぶ頼んでみたらあっさりOK。それが「神田川」だった。「へー、イージマ君もこういうの聴くんだ」と音楽の先生は言うし、クラスメイトは「ほらやっぱり」と味をしめ、次の日は、今度はビートルズのレコードを持ってきた(「Help」と「You've Got To Hide Your Love Away」)。私の好きな曲ではあったが、やはりいやだった。今で言えば、コネを利用してワクチンを早く打つ感じである。だから3回目は断って、以後、そういうことはなくなった。そんな出会いだったら「神田川」にはいやなイメージがまとわりついた。だが、ヴァイオリンのメロディーは好きで耳コピでよく弾いたし、そのうち大人になると、歌詞の意味にも惹かれるようになった。そう言えば、歌詞に「二人で行った横町の風呂屋」が出てくる。それで思い出す話がある。学生時代、某美男と某するめ美女は密かに付き合っていた(このことを知っているのは私だけである。某するめ美女から聞いた。因みに、某美男とは私のことではない。このような注意書きを書くことについて二説ある。第1説。美男と言ったら私だから「違う」と言っとかないと誤解されるので書いたとする説。第2説。美男と言ったら私じゃないことは当然だから、これは当然のことを注意的に記した「注意的注釈」であるとする説。それから、「するめ美女」とは、最初はあまり印象がなかったのに見れば見るほど味が出てくるするめのような美女のことである(今作った。当初、「よく見たら美女」と表現しようと思った)。その某美男と某するめ美女がある日銭湯に行った。予め、某美男が出ようと思ったら女湯に聞こえるようにミサ曲の先唱を歌うという取り決めをしたそうだ(ルネサンス期においては、ミサ曲のグローリアやクレドの冒頭だけは、グレゴリオ聖歌をソロで歌う。それを先唱と言う。♪グロオリア(ソラドドド)、インネクシェルシス(シドレシ)デエエオ(レドシシ)って具合である)。だが、某するめ美女が待てど暮らせど男湯から先唱は聞こえてこなかったそうだ。だが、某美男は、後で、歌ったと言い張った。想像するに、某美男もいざ歌おうと思ったら他の人の目が気になってぼそぼそとしか歌わなかったのだろう。今、「神田川」は、聴くたびにいい曲だなぁと思う。因みに、A合唱団の練習で、西戸山生涯学習館に落合駅から向かうと途中で神田川を渡る。春は桜がきれいである。それから、「神田川」が流行った当時は、「同棲」という言葉は神秘で淫靡で憧れの言葉であったが(水戸黄門の入浴シーンでおなじみの由美かおるが主演した「同棲時代」という映画もあった)、今では、籍を入れる前に同棲するのが半ば普通のことだそうだ。考えてみれば、私とケメ子とワサビだって同棲である。しかも三角関係である。

ソングライン

2021-05-14 11:11:40 | 言葉
私などは現在の第1外国語はドイツ語だから「ソングライン」と聞くと一瞬「小さい歌」と思ってしまう。英語の「song」に「小さい」を表すドイツ語の接尾語の「lein」がくっついたと思うわけだ。たしかに異国語のチャンポンではある。以前、某SM合唱団の新年会で「gute voce」と言ったらインテリ揃いの団員から「チャンポンだ」との総攻撃を受けた(だいたい、インテリは頭が硬い。硬い頭から柔軟な発想は生まれない)。今では、チャンポンは当たり前。「Voces8」だってチャンポンである(イタリア語に英語の複数形のsが付いている)。しかし、「ソングライン」は「小さい歌」ではなかった。オーストラリアの原住民が歌い継いできた目に見えない、伝説上の「道」なのだそうだ。映画「大海原のソングライン」を見た方なら、すぐに分かったろう。私は見てないので分からなかった。因みに、私が一瞬「小さい歌」だと思った「ソングライン」は牝馬の名前である。最近のレースでは惜しい2着。強いことがばれてしまったので、次からは人気になるだろう。そのレースで勝ったのは「シュネルマイスター」。これはまごうことのないドイツ語である。いかにも速そうな名前だ(「Schnellmeister」=「速い親方」)。因みに、前回、前々回と「10文字」をネタにしたが、馬名は9文字。「シュネルマイスター」は「ー」と伸ばすのに、「マチカネタンホイザ」に「ー」が付かないのはそのためである。そう言えば、「マリアライト」と言う牝馬がいた。これこそ「マリア様の光」と思ったら違って、そういう石があるそうな。石(宝石)って「なんとかライト」って言うんだってね。宝石好きの競馬ファンならすぐ分かったのだろう。

「かいちょうはえらいひと」(ぴったし)

2021-05-14 08:54:52 | 日記
よりにもよって医師会の会長さんが、自分たちが応援する政治家のパーティに出席して物議を醸している。これまで、強い口調で国民に行動自粛を求めてきただけに逆風は強烈。同じお医者さんの中でも例えばテレビで意見を求められたある先生は「個々の医者はがんばってるのにこの人が全部ぶちこわした。これまでパワハラまがいに人を恫喝してきたくせに許せない」とワナワナしながらコメントをされていた。「パワハラ」とはおだやかではないが、とにかくみんな怒っている。そうか!分かったぞ、この人の真意が!この人は、そこまで国民のことを考えてくれてるんだ。もう、みんな自粛疲れで爆発寸前。どこかに怒りをぶつけたい。その怒りの矛先に自らなってくださったのだ!え?皮肉?だって、そうじゃなければなんなの?人に言っといて。「自分たちは『選ばれた民』だから国民はやっちゃいけなくても自分たちはいい」なんて考えるわけないじゃない、偉い人なんだから。そうだ!偉い人なんだから「のぎさんはえらいひと」(前回の記事参照)をこの方に置き換えよう。「いしかいのかいちょうはえらいひと」。これでは「こいけさん…」以上に字余り。「かいちょうはえらいひと」、うん、10文字ぴったりだ!(「ちょ」は一文字に数えてね)。

「こいけさんはえらいひと」字余り

2021-05-13 06:22:15 | 日記
イタリア人は、政府が右を向けというと左を向く国民性だと言う。そのイタリア人でもコロナ禍は話が別なようで、国民はロックダウンに応じた。イタリアでさえそうなんだから、政府が右を向けと言う前から右を向き、それが同調圧力となるわが先進国においてJ警察が出没するのも当然である。いまや首都圏は禁酒法が蔓延する死の街である。そうした状況において、東京都に真っ正面から異を唱えた人々が現れた。それはなんと国(文化庁)である。国立科学博物館等の閉館を要請した東京都に対し、「開館と閉館の区別に合理的な理由があるんなら従う。だが、合理的な理由が見いだせないから従わない」と言ったのである。これである。私達は、行動制限について、科学的なエヴィデンスに基づいた合理的な理由を示してほしいのである。それをしないで、むやみに「出るな」「飲むな」「開けるな」と言うのは、日露戦争で、203高地を攻略するために兵にむやみに真っ正面から突撃させ、膨大な犠牲者を出した軍部と同じである(片や「行くな」、片や「行け」でベクトルは逆であるが)。このとき、現地で軍を率いていたのが乃木希典大将である。そう言えば、「だるまさんがころんだ」という遊びがある。鬼が「だるまさんがころんだ」と言う間は、鬼は目をつぶる。その間に鬼以外が鬼に近づくという遊びである(テレビゲームばかりやる今の子って、こういう遊びはもはやしないのだろうか)。なんと、私がこの遊びをしたときに鬼が唱えた呪文は「だるまさんがころんだ」ではなく「のぎさんはえらいひと」であった。もちろん「のぎさん」ってどこの誰かも知らなかった。今考えてみると、これは子供に対する恐ろしい洗脳作戦だ。遊びの中で、乃木大将賛美の心を植え付けようとするものである。いったい、いつ、誰が、このような洗脳作戦をあみだしたのだろう。だが、今の人がこの作戦に倣って「こいけさんはえらいひと」を広めようとしてもそれは無理である。この呪文は10文字でなければならないところ「こいけさん……」だと11文字で字余りになるからである。これが今回一番書きたかったことだ。あと少し余談。わが先進国は、ワクチンの進捗率について言えば、先進国中ダントツで最下位。途上国以下である。だが、日本はかつてワクチン大国であった。しかし、副反応が裁判になって有罪判決が出た。それが「萎縮的効果」をもたらしたのである。「怖がり」というこの国の国民性が今回のワクチン不足の原因の大きな一つだと思う(冒頭に書いたイタリアは、今では、感染者が大幅に減ったとして観光地の飲食店が営業を再開している。だが、新規感染者数は、日本の方がまだ少ない)。それから、「のぎさんはえらいひと」と子供に言わせた張本人が、乃木さんの何が偉いと言いたかったかについてはいくつかの可能性がある。(大損害を出したがとりあえず)203高地の占領に成功したこと、明治天皇に殉じたこと等々。だが、「のぎさんはえらいひと」を卒業して、日露戦争のことを多少知るようになった私は、203高地で某大な犠牲者を出した「のぎさん」を「えらいひと」とは言えなくなった。当時でさえ、国内に批判があったと聞く。ところが、そうした印象をさらに変える話が伝わってきた。乃木大将自身は正面作戦しかとりようのないこの作戦を避けたかったのに、大本営が無理矢理やらせたというのである。敵の捕虜を丁重に扱ったなんて話も伝わってくる。じゃ、やっぱり「えらいひと」だったの?人の評価は一筋縄ではいかないものだ。因みに、私は、コイケさんの公約の中で「犬猫殺処分ゼロ」には大賛成。これを実現した氏をこの点では評価するものである。なお、コイケさんと言った場合、いろんなコイケさんがいらっしゃるから注意されたい。先日記事にしたS委員長の番頭格もコイケさんだし、ラーメン好きの漫画の登場人物もコイケさん。それから、売れてるポテトチップスを作っている会社もコイケさんである。

クシコスの郵便馬車

2021-05-12 05:25:11 | 音楽
先日の某美女の門下生の発表会の話の続きである。「クシコスの郵便馬車」を弾いた子がいた。演奏者は自分で曲目紹介をするのだが、その子は「運動会でおなじみ」と紹介。おお、たしかに半世紀前にそうであった(あるいは、10年後に息子又は娘の運動会でワタクシが徒競走に出るときに聴くのかもしれない(妄想))。聴く。懐かしい。ん?(移動ドで)♪ソラシドレドレシドレミファソファソミ……これって、リストのハンガリー狂詩曲第2番じゃん。どういう関係なんだろう?そもそもこの曲ってどういう曲?ということで捜索開始。作曲者はドイツ人のヘルマン・ネッケなのだが、まず曲名について一悶着。原題は「Csikós Post」。「Csikós」はハンガリー語で「馬に乗る人」。「Csikós Post」全体で「郵便馬車」を意味するって説と、「馬の曲芸乗り(二頭の馬の背中に立って、前の二頭を操る)」を意味するって説がいる。いずれにせよ、「クシコスの……」とういう邦題は「Csikós」を地名と勘違いした言い方なので、今日では「チコーシュ・ポスト」と言う人が多いのだそうだ。ところが、無償の楽譜サイトのimslpのネッケのページに「Csikós Post」が見当たらない。それもそのはず、この曲は「Klänge aus Ungarn」(ハンガリーの響き)という曲集の中の一曲であった(この重要な情報がWikiのこの曲のページにないのは大問題である。この情報は、かろうじて、作曲者についての英語のページにある)。しかも、imslpにはその第2集のみがアップされており、その中に件の曲は入ってない。だから、imslpではこの曲の楽譜をDLすることはできない。だが、この曲とリストとの関係はすぐに分かった。ネッケがパクったのである(言葉が悪いかもしれない。「旋律を借りた」「オマージュを捧げた」等々の言い方があるが、でも「パクった」が一番分かりやすい)。「ハンガリーの響き」という曲名を付けるくらいだから、ハンガリー特集であり、だからリストのメロディーを使ったのだろう。因みに、ネッケのこの曲で、件のメロディーが出てくる直前にイントロ的に♪ソー♯ファー♮ファーミーレードーシーラーとくるあたりはオッフェンバックの「天国と地獄」と紛らわしい。だが、「天国」の方は、カステラ一番電話は2番でおなじみだが、♪ソー♯ファー♮ファーミーレミファ♯ファソ、ときて、ソレレミレドドミファラドララソソと続く。そう言えば、私が今よりもっと壊れていた30代のある日、今はもうないP合唱団のお花見の帰りに某駅のホームで、高校の同窓のTs女史と一緒に「カステラ一番」を歌いながらカンカン踊りを踊ったことがある。アラフォーは壊れがちなお年頃である。某美女の門下生の発表会に戻る。ショパンの夜想曲を弾いた子がいた。「大事な人を思い浮かべながら聴いて下さい」と言われて考えてしまった。そりゃ皆さんには大事な人がいるだろう。この子を始めとするお子さんたちには会場でわが子の成長に目を細める親御さんがいるだろう。某美女も、可憐弟子美女も、男装の麗人美女も、いずれもご夫君が客席で見守っていた。あるいは、80代で歌を歌われた方もいらしたが(ちゃんと高音を出されて感嘆した)、この方を見守ったのはお子さんやお孫さんだろう。しかし、ワタクシの場合、母はボケて既に私のことが分からないし、妹とは何年も会ってない。その娘(私の姪)とは、20年近くである。ほぼほぼ天涯孤独になったワタクシであるが、唯一……ではなく唯二、猫がいた。だから、ショパンを弾いた中学生だか高校生だかの将来の美女には「大事の人や猫を思い浮かべながら聴いて下さい」と言ってもらえたらなお良かった。余談を二題。その1。「クシコスの郵便馬車」を運動会のどのシーンで聴いたか覚えてないが、題名と曲の感じから騎馬戦が相応しいと思う。だが、騎馬戦って危ないからって今やってないの?その2。映画「オーケストラの少女」で、ストコフスキーが失業オーケストラを振るきっかになったのがリストのハンガリー狂詩曲第2番である。私、小学生の頃、電蓄(電気蓄音機)でこの曲のSP盤のレコードを聴いてから学校に行くのが常であったが、その演奏がストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団だった。ミーハーの父が映画の影響で買ったレコードであったろうことは明らかである。

マルクス経済学/ブラタモリの初代アナウンサーはBCJのマタイでリピエーノを歌ってた件

2021-05-11 08:58:03 | 音楽
某革新政党のS委員長は、おそらく全国平均よりもクラシック愛好家の間での支持率が高いものと思われる。S氏はなうてのクラシック音楽ファン。ピアノもお弾きになるそうで、音楽家を志したこともあるそうな。そういう情報を知っているからか、クラシック・ファンがS氏について好意的に書いている投稿をときどき目にする。だが、それは、あくまでもS氏個人のことであって、当該政党の支持というわけではないようだが、私が住んでる区は、当該政党自体が平均よりも高支持率を獲得している。かつて区長を輩出したこともある。理由は、トリクルダウン理論(シャンパンタワーの上から注いだシャンパンが下まで落ちていくように、富める者が富めば、貧しい者にも自然に富がこぼれ落ち、経済全体が良くなるという理論)の恩恵を受けない層が多いからだろう。支持者が多い地域では政党は元気が出るらしく、私の家の回りを回ってくる街宣車はたいがいこの政党のもの。この街宣車がくると講義の撮影を止めなければならなくなるので閉口しているのだが、静かにしてくれなどと言ったら、「表現の自由を何と心得る?」と100倍になって返ってきそうだから我慢している。ということで、私はこの政党の支持者ではないが、マルクス経済学は、高校のとき興味を持っていて、大学が政治経済学部の経済学科に決まったとき、おおいにマルクス経済学を勉強できると喜んだのもつかのま、合格発表の日だったか、サークル勧誘の上級生に「ワセダは近経(=近代経済学。ケインズとか)なんだよ。マル経(マルクス経済学)はやらないんだよ。国立だと半分はマル経なんだけどね」と聞かされがっかりした思い出がある。そのマルクス経済学を、なんと、20年後にドイツで勉強することになろうとは。フライブルクのドイツ語学校で、先生がグループごとに(一方的に)与えたテーマについて研究して発表する、という授業があった。なんと、私らのグループに与えられたのが「マルクス」。図書館で、付け焼き刃の知識を集めて(付け焼き刃は大得意)発表したら好評であった。私は、20年前のいきさつがあったから、その意味で感無量であった。さて、同じく野党の立民の枝野さんは、合唱団でハレルヤ・コーラスを歌ってる映像を見たことがあるから、クラシックをお嫌いではないと思うのだが、不思議と、氏のプロフィールにカラオケが出てきてもクラシック音楽が出てこない。なぜだ?趣味欄に「クラシック」と書いちゃうと「高尚」って白い目で見られる、「カラオケ」って書けば「庶民的」だって言って票が集まる……なんてことを意図されているのだろうか?だったら残念である。まるで、趣味欄に「競馬」と書くのを躊躇するようなものである(今、そういうJRAのCMがある)。全国平均よりクラシック・ファンの間で高い支持率を獲得していると言えば、NHKの林田理沙アナウンサーもそう。林田アナは、芸大の楽理科の出身であることがクラシック・ファンから注目されている。だが、私的には、そういうことで言うのなら、久保田祐佳アナを忘れてもらっちゃ困る、である。久保田アナは、なんと、お子様時代に、BCJのマタイ受難曲の演奏会でリピエーノ(子供の合唱)を歌ったという。因みに、久保田アナはブラタモリの初代アナウンサーであり、その意味でも林田アナの先輩である。政党と言えば、ピアニストのポリーニは、かつてイタリア共産党の党員だった。そのことをベルリン・フィルの団員が噂話している映像があった。「ホント?」「へー」とか言っていた。だが、イタリアの音楽家の多くが同党の党員であったことにはそれなりの(業界ならではの)理由があるらしかった。そのイタリア共産党がいつのまにか消滅していてびっくりぽん。なお、「びっくりぽん」は、何年か前の朝ドラ「アサが来る」のヒロインの口癖であるが、野田元総理が国会の質問で「(政府の対応は)びっくりぽん」と言ったことがある。すると、日曜日の朝の番組で某評論家が「国会で『びっくりぽん』って言うなんてふざけてる」と苦言を呈しておられた。私は、「びっくりぽん」くらい言ってもいいのに、と思った。

美女の門下も美女ばかり(将来の美女を含む)

2021-05-10 07:25:36 | 音楽
某美女の門下生の発表会は、緊急必要の会であるから、たとえ県境が封鎖されていても、冷戦時代に東ベルリンから西ベルリンに脱出したドイツ人よろしくかけつけたことだろう。某美女のお弟子さんたちは、コロナ禍でもリモートでレッスンを続けたその成果の発表である。実現できて、どれほど今後の糧になったことか。ワタクシにとっても、某美女の美声を久々に聴けて(某美女は、舞台上の設営を一手に引き受け、前半は伴奏のピアノを弾き、後半はお弟子さんたちと重唱を歌われた)、門下の中のお友達美女達の歌も聴けたことが嬉しかったが、まったく存じ上げないその他の門下の方々の歌やピアノを聴けたことがたいそう楽しかった。全体からして楽しく、ハートウォーミングな世界であった。某美女のお人柄であろう。徹底した感染対策のため舞台上でも全員がマスク着用で演奏しにくかったろうが、みなさんが熱演であった。それにしても、某美女の門下も美女ばかりである(美女には将来の美女を含む。一人だけ、将来の美男がいた。ネクタイを締めていた。私がネクタイを初めてしたのは、たしか就職先生の企業回りのときである)。以下、いくつかピックアップして個別の感想を。ピアノでスケーターズワルツを弾いた子がいた。私が、子供の頃、最初に弾けるようになったソロ曲がこれである。だから懐かしかった。テンポが動いていたが、これとて、速くなるところはスケートがよく滑ってるんだなー、遅くなるところはそろそろ止まるんだなとか思えて一興であった。子犬のワルツを弾いた子がいた。普段聴かないようなゆっくりなテンポだったが、これこそワルツだと思った。踊れると思った。この曲も昔弾いていたので、あらためて弾きたくなった。私のお友達である弟子美女のお一人の歌は某会でいつも聴かせていただいている。相変わらず可憐で、詩の意味にとってもこだわってらした。先だっては、ワタクシはこの方と「ホフマンの舟歌」でご一緒したのだが、その「舟歌」をもう一人のお友達美女と歌っておられた。もう一人のお友達美女は、男装の麗人風で妖艶だった。いろんな意味でジェラシーがくすぶった(Witz)。最高に楽しかったのは、某美女と可憐弟子美女の「手紙の二重唱」(モーツァルトのフィガロの結婚)。扇子をゆらゆらさせながら手紙の内容を口述する某美女演じる伯爵夫人と、それを律儀に文に起こす可憐弟子美女演じるスザンナの演技がとっても可笑しかった。声をあげて笑いたいところだったが時節柄自重した。某美女と男装の麗人美女の「猫の二重唱」も芝居っけたっぷりだった。いやー、みなさん演技派である。最後に、某美女のソロで締めくくるという絵に描いたような素敵なコンサートであった。あっという間の2時間。幸せ感満載。そして、家に帰って録画を見ると、NHKマイルカップの馬券もしっかり当たっていた(ソングラインを入れておいたのがよかった)。免疫ぞぞ上がりの一日であった。

マタイの元詩=メンブラ説は容疑不十分にて不起訴

2021-05-09 07:52:37 | 音楽
バッハのマタイ受難曲の「血潮したたる」の原曲の話は一段落したつもりでいたら、新たな、興味ある疑問をK田美女が提供してくれた。マタイの「血潮したたる」の歌詞の元詩はブクステフーデの「我らがイエスの四肢(Membra Jesu nostri。略してメンブラ)」の終曲のラテン語の詩だという噂があるのだそうだ。メンブラと言えば、以前、シュッツを歌う会でとりあげたとき対訳を作ってあった。どれどれ。おっ、第7曲に「Salve,caput cruentatum(ようこそ!血潮したたる御顔)」とある。これのことか。これがマタイの「血潮したたる」の元詩なのか(バッハがこれを独訳してマタイに入れたのか)。あらためて捜査をした。その結果、容疑不十分で不起訴とした(メンブラはマタイの元詩ではないと判断した)。今回の捜査結果は次のとおりである。「事件」を時系列で並べよう。
13世紀に、アーヌルフ・フォン・レーヴェンが、ラテン語で、「Oratio Rhythmica」という詩集を作った。これは、十字架につけられたイエスの7肢について表したものである。当初、この詩集は、12世紀に、ベルンハルト・フォン・クレールヴォーが作ったとされていたが、今日では、作者はレーヴェンとされている。
1601年に、ハンス・レオ・ハスラーが、「私の心は千々に乱れ(Mein G’müt ist mir verwirret)」を作曲した。
1656年に、パウル・ゲルハルトが、賛美歌「血潮したたる(O Haupt voll Blut und Wunden)」を作った。メロディーは、上記のハスラーの曲のリズムを簡単にしたものであり、詩は、上記のレーヴェンのラテン語詩のうち第7節を独訳したものだった。
1680年、ブクステフーデが、「我らがイエスの四肢(Membra Jesu nostri)」を作曲した。歌詞は、上記のレーヴェンのラテン語詩を7節すべてラテン語のまま採用した。
1727年、バッハのマタイ受難曲が初演された。その中に、コラール「血潮したたる(O Haupt voll Blut und Wunden)」があり、これは、メロディー、詩とも上記のゲルハルトの賛美歌と同じである。
結論。メロディーについては疑問はない。ゲルハルトの賛美歌を経てハスラーの曲にたどりつく。今回、問題となったのは詩である。こう結論づけた。マタイの「血潮したたる」の詩の直接の元詩は、メロディーと同じくゲルハルトの賛美歌である。その賛美歌の歌詞は、レーヴェンのラテン語の歌詞の一部を独訳したものである。他方、ブクステフーデの「メンブラ」の歌詞は、レーヴェンの詩をすべてラテン語のまま採用したものである。

レーヴェンの詩の一部→ゲルハルトが独訳して賛美歌に使った→バッハがその賛美歌をマタイに使った。
レーヴェンの詩の全部→ブクステフーデがラテン語のままメンブラに使った。

したがって、「バッハのマタイの歌詞の元詩がブクステフーデのメンブラの歌詞」なのではなく、「マタイの歌詞の元になった賛美歌の元詩と、メンブラの歌詞が同じ」というのが正確な表現である。言ってみれば、マタイはキズナ(父はディープインパクト)産駒であり、メンブラはディープインパクト産駒、ということである(最後に、ワケの分からないことを言ってたりして)。以上!K田美女様、ありがとうございました。お陰様で、楽しい捜査のひとときを過ごせました。

「ワインする」=「泣く」?/天皇賞があってのBWV12

2021-05-08 09:37:08 | 言葉
疑問と捜索は果てない。昨夜の記事で、ロ短調ミサのCrucifixusの原曲であるBWV12の原曲であるヴィヴァルディの曲とBWV12を比べてみて、まことにそっくり。ヴィヴァルディの曲のある部分を歌詞(をドイツ語に直訳したもの)を含めてそのまま合唱にしたことを見た。そのBWV12の歌詞の冒頭は「Weinen」(泣く)。原曲の「piango」の直訳であるが、この「weinen」を書いててあらためてハッと思った。「weinen」は動詞で「泣く」の意味だが、考えてみれば名詞の「Wein」(ワイン)に「en」を付けただけである。両者はどういう関係なのだろう。「ワインする」ことが泣くことなのだろうか。想像した(この想像は後で見るように徒労に終わる)。例えば、ロマン・コンティを飲んで、美味しすぎて、随喜の涙を流す。逆に、もったいなくて飲めなくて何十年も経ってから飲もうと思ったらお酢になっていて、慚愧の涙を流す。あるいは、ワイン造りの過程の中で、昔は大きな樽の中で人間が葡萄を足で踏み潰していたのだが、その作業がきつくて辛い涙を流す。いずれも「ワインする」が「泣く」である。そういうことか?そういうことではなかった。「weinen」と「Wein」の語源は全く別物であった。「weinen」の語源は「weh」(悲しいときに発する言葉)であるという。それに対し、「Wein」の語源はラテン語の「vinum」であるという。因みに、私がワイン関係の仕事をしてたとき、会社にあったワインについての洋書に「ワイン踏み」の様子を映した写真が載っていたが、全員素っ裸のフランス人(男性)で、「わいせつ物」がはっきり写っていた。同僚(全員女性)がそれを見て「おおーっ」と感嘆だか驚愕だか分からない声を挙げていたことを覚えている。さて。BWV12でだいぶ記事を書いた。BWV12のことを書いたきっかけは、「マタイ受難曲の原曲はハスラーの世俗曲」という記事に対して「原曲と言えば」と言って寄せて下さったコメントである。「マタイ受難曲の原曲はハスラーの世俗曲」を書いたきっかけは、「むすんでひらいての原曲はルソーのオペラ」という記事に対して「似てない」と言って寄せて下さったコメントである。「むすんでひらいての原曲はルソーのオペラ」を書いたきっかけは、映画「ベン・ハー」の世界が人権をないがしろにしているのを見て人権思想家のくせに自分の子供を何人も孤児院に棄てたルソーを思い出したからである。「ベン・ハー」のことを書いたきっかけは、天皇賞でカレンブーケドール(牝馬)が激走したことを書いた記事に対して、最近BSで「ベン・ハー」を見たと言って寄せて下さったコメントである。ということで、最終的に、BWV12とヴィヴァルディの「Piango」の比較ができたのは、最初に天皇賞のことを書き、それに対してお友達たちがコメントをくださったおかげである(風が吹けば桶屋が儲かる)。すべては天皇賞とお友達に感謝である。おまけ。「むすんでひらいて」の歌詞の中に、「また開いて」という箇所がある。この「また」は、「also」(英語。ドイツ語でアルゾーと読むと別の意味になる)の意味であるが、どうしても「股」を思い浮かべてしまう。仕方がない。「まーたひらいて」(♪ミーミファソソソ)という音の長さのせいである(「also」の意味の「また」は短い)。そして、その意味での「まーたひらいて」で思い出すのはピンクレディーの「ペッパー警部」である。