拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

会津と薩摩をとりもったフランス語

2021-05-29 10:17:02 | 言葉
英仏独の三カ国語を自由に操った明治の女傑・ヒシアマゾン……まちがった、「女傑」ときくと反射的にヒシアマゾンを思い受けべてしまうのでご勘弁……もとい、大山捨松は、会津の生まれ。夫・大山巌は薩摩だから仇敵のはずである。だから、結婚後は、二人とも親戚との付き合いが絶たれたそうだ。まるで、モンタギュー家とキャプレット家である。だが、二人の間にも障壁があった。言葉である。結婚するかどうかはデートして決めましょう、という、当時としては極めて先進的な捨松の提案でデートしたはいいが、互いの会津弁と薩摩弁が理解できない。まるで国際カップル。唯一、通じた言葉があった。フランス語である。これで打ち解けて二人は結婚されたそうな。いいね!私もそのセンで行こう。相手の言葉が通じないとき、ドイツ語で会話をする。いっきに盛り上がって私の戸籍に二つ目の丸を付ける、という算段である(しかし、そこに持って行くためには、日本語が通じないフリをしなければならない)。思い出した。フライブルクのドイツ語学校で、いかにも日本人なのだが、クラスが違うので、出自が分からない。向こうも同様だったようで、休み時間に会うたびにドイツ語で話をした女性がいた。怪しい、多分、日本語に切り替えれば通じるんだろうな、と思いながら最後までドイツ語で通したお相手であった。狐と狸の化かし合いのようでもあった。いったん、話が変わる。テレビで、コーヒーの産地の話をしている。一定の緯度の範囲内にある国々で、新興国が多く含まれているのだが(その中にベトナムもあった。私がよくスーパーで買うインスタントコーヒーはベトナム産である)、偉い先生が、「環境を破壊しているような国のコーヒーは美味しくない。味は、そういう背景も含めて味わうものである」と言っておられた(どこの国かということはおっしゃらなかった)。へー。なるほど。いや、けっしてそうした卓見に異議を唱えるものではないが、そのことを音楽にあてはめて、夫や妻を泣かせた演奏家の演奏は決して美しいものではない、と言っちゃうと、三大テナーは全滅である。クライバーもクレンペラーもとんでもない。ルチア・ポップなんかそういう物差しではかっちゃえばもはやヘクセ(魔女)である。それに、何をもって偉いかの基準だって人それぞれ。浮気したパートナーを出刃包丁で刺そうとする人は、自分の行為に一点の曇りがないものと信じている。この人にとっては、「生命・身体」よりも「貞操」の方が優越した価値基準なのである。大山捨松は「鹿鳴館の花」だったそうだ。捨松側に立った見方によれば鹿鳴館は文明開化の象徴であるが、西洋のモノマネでみっともないという評もある。こんなことを書くと捨松の信奉者から刺されるだろうか(鹿鳴館がみっともなくても、捨松自身は真にかっこよかったそうである(フォロー))。そう言えば、高校のとき社会の先生が、上野の西郷さんの銅像のまわりで西郷さんの悪口を言ってはいけない、刺される、と言っていた。45年前のことである。ということで、捨松・巌(会津・薩摩)の話で始まって、途中寄り道をした後、捨松・西郷さん(会津・薩摩)の話で終える今回の記事は、うまくABAの三部形式にはまって大層悦な私である。なお、上野公園のある高台は、武蔵野台地の舌状台地だそうだ。東京も、ぽこんぽこんと台地がある。舌状台地だなぁ、と思う。私にそういう目を開かせてくれたのはブラタモリである。これはABAの先のコーダである。