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とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

2023五島つばきマラソンツアー:1日目

2023-02-25 19:24:12 | 観光
先週、長崎県の五島列島に出かけてきた。福江島で行われた五島つばきマラソンに参加するためだが、最近五島の話題を多く聞くこともあり、せっかくなので観光も楽しもうと言うことで9人の仲間たちと長めの日程で楽しんできた。

五島に行くには、長崎空港からバスで長崎港まで移動し、フェリー又はジェットホイルで五島最大の島、福江島に行くことができる。今回は、長崎港からはジェットホイルで福江島に向かう。高速船なので乗船時間は1時間25分だ。午後1時前には、福江島に到着する。

福江島では早速、レンタカー2台を借りて観光に向かう。午後からの観光なのでたくさんは行けないが、まず向かったのが堂崎天主堂だ。駐車場から、海岸沿いを歩いていくと興味を引くものが見えてきた。


面白い形の岩が姿を見せている。形がりんごに似ていることからりんご岩と呼ばれるようになったという。ただし、引き潮の時にしか見られないので、ちょうど運が良かった。


そしてその先にあるのが、天主堂を伴う堂崎教会だ。禁教令が解かれたあと、五島キリシタン復興の任を帯びて、フランス人宣教師フレノー、マルマン両神父が五島を訪れ布教にあたり、1879年にマルマン神父によって、五島における最初の天主堂(木造)が建てられた。その後着任した、ペルー神父によって1908年に、現在のレンガ造りの教会堂が完成したという。現在は、長崎県の有形文化財(建造物)の指定を受けている。


建築の際には資材の一部がイタリアから運ばれ、内部は木造で色ガラス窓、コーモリ天井などの教会堂建築となっていて、弾圧の歴史や資料を展示する資料館として、一般公開されている。


外の庭園にはアルメイダ神父が五島に布教したときの様子を描いたレリーフがある。


堂崎教会の敷地に建てられたヨハネ五島殉教碑。日本二十六聖人の一人、聖ヨハネ五島は、五島のキリシタンの家に生まれた。豊臣秀吉の迫害が強まり、神父の逮捕命令が出た際、自ら申し出て神父の身代わりとなった。1597年、長崎・西坂の丘で処刑されたときは19歳の若さだったという。西坂で殉教した26人の遺骨は宣教師によって集められ、そのほとんどがマカオに送られたが、現在は分骨されたものが堂崎天主堂に納められている。


教会の裏山斜面にある聖母マリア像。真っ白く美しい像だ。


教会内部は、堂崎天主堂キリシタン資料館として、布教時代から迫害を経て復活にいたる信仰の歴史が展示されている。写真撮影はできないので、見るだけにして堂崎天主堂を後にした。

次に向かったのが、水ノ浦教会。1880年に最初の教会が建築されたが、老朽化にともない、奥の土手を削って広げ、1938年、鉄川与助設計施工の木造の優美な現教会に改築された。


ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合した白亜の美しい教会で、木造教会堂としては最大の規模を誇り、青空に尖塔がそびえる光景は絵になる美しさだというが、この日は曇っていて青空ではなかった。


教会の入り口には、「私は門である」、「私を通って入る人は救われる」とある。我々も救われたのであろうか。残念ながら、教会内部は、感染症対策の一環で堂内の拝観はできなかった。


水ノ浦教会のルルド。「1858年にフランスのルルドで聖母がベルナデッタという少女の前に姿を現し、そこに数々の難病を治す奇跡の泉が湧き出た」というのがキリスト教徒には有名なルルドの泉の話で、ここにも、奇跡の泉と洞窟のマリア像でルルドが作られている。巡礼者の聖地となっているのだ。


裏山の斜面には、十字架をあしらった墓地が並んでいる。本土とは違い、キリスト教信者の多い島らしい風景だ。


ホテルのチェックインの時間までには、まだ十分時間が有ったので、鬼岳(おんたけ)に向かう。朝ドラ「舞い上がれ」では、子供の舞が凧揚げをするシーンのロケが行われたのは島北部、岐宿町の魚津ケ崎公園(マラソンのコースで通る)だが、本来、凧揚げ大会が行われるのは島の南東部、上大津町にある標高315mの鬼岳山頂付近であるということで立ち寄ってみることにした。駐車場から階段を上り、山を登っていく。


この時期は、緑がなく一面茶色の斜面が広がっている。


鬼岳は、その勇壮な名称とは反対に、丸みを帯びたやわらかな形状で古くから市民に親しまれているそうだ。こんな景色を見ると、ランナーは走りたくなるようだ。




後ろを振り返れば、海も見え、小さな島がいくつも見える。


鬼岳山頂315mに到着。


この穏やかな姿からは、かつて噴火した火山とは想像しにくいが、火口の尾根伝いを歩くことができ、眼下には福江の市街地や海を望める。体力が有り余っているメンバーばかりなので、火口をぐるっと一周して駐車場に戻った。


この日の観光はこれでお終いとし、福江港近くのホテルにチェックインした。

「2023五島つばきマラソンツアー:2日目」に続く。

2023志賀高原スキーツアー:1日目地獄谷野猿公苑

2023-02-07 22:18:31 | 観光
今シーズン2回目のスキーは志賀高原に行くことになった。まずは、湯田中駅で仲間と合流し、湯田中駅から近い地獄谷野猿公苑に行く。地獄谷野猿公苑は、野生ニホンザルの観察のための公園で、冬にはサルが温泉に浸かる様子が知られる。世界的にも有名な観光地で、英語圏ではSnow Monkey Mountainとも呼ばれているそうだ。

車で10分ほど走ると地獄谷野猿公苑の駐車場に着く。平日なのに駐車場はほとんど満車状態だったが、ぎりぎり空いたスペースに止めることが出来た。入り口には、ライブカメラの映像が映り、サルたちが露天風呂に入っている様子が見える。


サルたちがいる場所までは、入り口から1.6キロ先となり、雪道を25分ほど歩かなくてはならない。


凍っているところもあり慎重に歩いていく。行きかう人もかなり多く、外人ばかりとすれ違う。


地獄谷温泉の入り口には、サルの雪だるまが出迎えてくれる。


雪国らしく、バイクにもしっかりチェーンが装着されている。


野猿公苑の入り口は、ここからだ。急な階段を上っていく。


階段を上がり、川の向こう岸には、地獄谷温泉の後楽館が見える。秘湯の温泉らしい佇まいだ。


ふと、川の方を見ると、川に渡されたホースの上を子ザルが渡っているのが見える。


いよいよ野生猿のテリトリーに入ってきたようだ。観光客が通り過ぎる階段の脇にもサルが数頭座っている。すぐ近くに人間がいても何も気にしていない。


お目当ての露天風呂に着くと、サル達が気持ちよさそうに風呂に浸かっている。


露天風呂の周りは、観光客でぎっしりと埋まっている。


サル達は、カメラを構えられても何も気にせず、しっかりカメラ目線だ。さすが観光地のサルはサービス精神が旺盛だ。


サルを見ている人間を観察するのも面白い。この場所にいる人間の9割方は外国人ばかりだ。日本ではなく海外の観光地に来たかのような雰囲気だ。


一通り見てから、元来た道を引き返していく。階段の上から旅館の露天風呂が見えた。入っているのは水着を着た外国人ばかりだったが、よく見ると端の方にサルもちゃっかり入浴している。サルと人間が仲良く混浴しているのも面白い。


野猿公苑が開苑した当時、好奇心旺盛な子ザルが旅館「後楽館」の人間用露天風呂に入浴し、それを大人のサルが真似をしたのが始まりだという。のちに、衛生面から「猿専用の露天風呂」が整備され今日に至っている。サルが温泉に入るのは、体を清潔にするなど水浴びの意味ではなく、雪が降るほどの寒さをしのぐためのものと考えられていて、暖かくなるとサル達は温泉に入らなくなってくるという。野猿公苑でサルを見るなら冬が一番いいようだ。


野猿公苑から駐車場に戻り、志賀高原スキー場の宿に向かった。

「2023志賀高原スキーツアー:2日目志賀高原中央エリアを滑る」に続く。

2022沖永良部島うとぅるしゃマラソンツアー:4日目観光

2022-11-29 19:20:23 | 観光
沖永良部島の主な観光スポットは行ったが、まだ行ってない場所を探して、島をぐるぐると回る。朝一で向かったのは、ウジジ浜公園だ。波によって削られた様々な形状の石灰岩が配置されている様は天然のオブジェだ。奇岩群は見る角度によって動物や植物のようにも見え、ここから拝む朝日が素晴らしいと言うが、少し遅かった。しかし、海面に映る光の帯が太陽に続く道のように見える。


1890年(明治23年)9月22日、カナダ帆船「リージCトゥループ号」が長崎からの帰路時に台風に遭遇しウジジ浜沖で大破したが、島民の必死の救助活動で乗組員22名中10名が救助された。この事故より2年後、カナダ政府から島民宛てに救助と看護に対する謝礼が贈られ、浜にはこれを記念した帆船型モニュメントが設置されている。


次に「ジョッキヌホー(瀬利覚の川)」という湧水地に向かう。沖永良部島は、島全体が隆起珊瑚礁で生成されており、水資源の確保が困難な環境のなか、集落の中心に位置するこの湧水は生命の源として集落民の生活を支えてきた。現在も昔と変わらずに集落のシンボルとして崇拝を受け、農業用水、洗濯、野菜洗い、子供たちの遊び場など地域コミュニティの場となっているという。


水の流れ出している方に向かうと、ちょうど地元の人が洗濯の真っ最中だった。


更に奥には、水神様が祀られ、水路の中を覗くと水がこんこんと流れ出していた。


次に行ったのは、住吉高倉。マラソンのエイドもあったところだ。これも9本柱の高倉(穀物倉庫)で町の文化財になっている。少しお腹がすいてきたので、マラソンのスタッフから朝一でもらったバナナを食べる。


住吉高倉の裏手にあるのが、住吉暗川(クラゴー)の入り口だ。


暗川とは,地下河川を伴う石灰岩洞穴のことだ。暗川が鍾乳洞や単なる石灰岩洞穴と根本的に異なる点は,水を得る水源地として利用されるだけでなく,地域の人々の社交の場としても利用され、そこを中心とした地域コミュニティが形成されていることだという。急坂を下っていくと、大きく口を広げた洞窟が見えてくる。


最深部まで下りていくと、きれいな水が流れている。




次の場所に移動する途中で、西郷隆盛上陸の地にもう一度寄っていく。


ワンジョビーチにも再び寄る。観光案内板を見ながら次はどこにしようかなどとも相談する。


マラソンの時は、浜までには行かなかったが、砂浜に下りてワンジョビーチからの海の眺めを楽しむ。白い砂浜と珊瑚礁の間に見える海の色が忘れられない。




マラソンコースから外れていたので、まだ行ってない後蘭孫八城跡に寄っていく。後蘭孫八は15世紀の島主、世之主に仕えた四天王の一人で、平家の落人の子孫という伝説もあり、優れた築城家としても知られている。


石灰岩の大きな塊の中を進んでいく。


大きなガジュマルの巨木の中を通っていく。この場所が醸しだす雰囲気は、島のパワースポットだと呼ばれていることもうなずける。


後蘭孫八の墓。


駐車場の前にみかん園があり、そこの人が我々にみかんをくれた。話を聞くと、後蘭孫八の子孫だといい、名字は“平”だという。やはり平家の子孫でもあるようだ。ほとんど誰も来ないような所に大勢の人間がきたのでわざわざ声をかけてくれたようだ。縁は不思議なものである。


旅の最後に寄ったのは、フーチャだ。ここもマラソンのコースで通ったりしたのだが、フーチャをじっくりは見ていなかった。フーチャとは『潮吹き上げ洞窟』を意味する島の呼び名で、海岸線付近の断崖には隆起サンゴ礁が荒波で浸食されてできた縦穴型の洞窟が口を広げている。


季節風や台風のときには20~70mも潮が吹き上がることもあるそうだが、干潮時なのでそれほどの吹き上がりはなかった。


洞窟の上の通路には、柵など何もなく自然のままになっている。洞窟を覗き込むと吸い込まれそうな気になってしまう。


海底の深さの違いによるのだろうか、場所によって海の青さが違って見える。


運がいいことに、ちょうどウミガメが泳いでいるのを発見する。フーチャ付近の海中にはアオウミガメが食用として好む海藻が多く生えており、遊泳中のウミガメを見ることが多いスポットだという。


3泊4日の島旅もこれで終わり。空港は、フーチャからすぐだ。レンタカーを返却して無事帰路についた。長いようであっという間に終わった沖永良部島ツアーは忘れられない思い出になった。

2022沖永良部島うとぅるしゃマラソンツアー:3日目観光

2022-11-28 07:33:27 | 観光
ケイビングは午前中で終わり、タラソおきのえらぶ近くのレストランで昼食を済ませる。その後、マラソンの時ワープして行けなかった田皆岬まで行ってみる。田皆岬は、沖永良部島の北西端にある美しい岬で、奄美群島でも特に美しい場所で、サンゴ礁が隆起した高さ51mの断崖絶壁が凄い。


東シナ海に突き出した崖から、コバルトブルーの海の景観を見下ろす。


方位盤を見ると、沖永良部島と周辺の島々との位置関係が良くわかる。


展望台から北東方向には、徳之島らしき島影も見える。


灯台方向に向かって歩いていく。


もう一度断崖から海を覗いてみる。白い波しぶきが岩を洗う荒々しい風景は圧巻だ。


駐車場からは、大山のレーダードームが見える。


まだ時間に余裕があったので、越山公園の登り口にある和泊町歴史民俗資料館に寄っていく。和泊町の文化財などが展示されている資料館には、歴史や民俗、文化などの情報が集められている。屋外にある建物は、9本柱の高倉だ。高倉は水害やネズミ等の被害から穀物を守るための建物で、稲作の盛んだった昭和40年代まで各集落に多く見られたという。


奄美諸島から沖縄には四本柱、六本柱の高倉が多いが、九本柱の高倉はたいへん珍しいそうだ。


NHK大河ドラマ「西郷どん」の沖永良部島ロケで使われたサタ車(さとうきびを絞るための道具)も展示されている。


その後、この日の夕方の便で帰る2名の仲間をえらぶゆりの島空港に送り届ける。残ったメンバーで3泊目の宿となる“47ホステル”というゲストハウスに宿泊する。


「2022沖永良部島うとぅるしゃマラソンツアー:4日目観光」に続く。

2022沖永良部島うとぅるしゃマラソンツアー:1日目

2022-11-23 17:10:53 | 観光
沖永良部島と聞いてもまったくどこに有るかも知らなかったが、第1回のウルトラマラソンが開催されるとの情報を得て、走れるかどうかも自信は無かったが、とりあえずエントリーしたところ、我も我もと8人もメンバーが集まり3泊4日のツアーに出かけてきた。

沖永良部島は、鹿児島県の奄美大島、徳之島よりも南で、与論島よりは北になるが、沖縄本島にも近い。文化も沖縄に近いようだ。アクセスは、鹿児島空港か那覇空港からの飛行機便があり、我々は、那覇空港から沖永良部空港行の飛行機に乗った。


那覇からは50分ほどのフライトだ。機上からは、平べったく高い山はほとんど見られない島が見えてきた。


半分くらいは山になっているが、住宅地と田園地帯も広範囲に広がっている。島の人口は13000人ほどらしい。


15時過ぎ、えらぶゆりの島空港(沖永良部空港)に到着する。青い空が広がり、快晴だ。しかも気温が高い。出かけたときは長袖でジャケットを羽織っていたが、ここでは半袖で十分だ。


空港からは、宿泊予定の“おきえらぶフローラルホテル”のマイクロバスに乗ってホテルに向かう。ホテルの玄関前でマラソンの受付を済ます。沖永良部島の形は、ナイキのロゴマークに似ているとのことで、ナイキの形をまねて記念写真を撮る。


ホテルのすぐ裏に、赤い鳥居が並んでいるのが見え、まるで京都の伏見稲荷を彷彿させる鳥居に興味を抱き、さっそく階段を上ってみる。


鳥居をすべて登り切ると海が一望できる。


丘の上には、はみやま神社が鎮座している。せっかくなので、旅の無事を祈っていく。


公道に出ると、日本語とは思えないような標語の看板があった。「ぬみんきゃぬんな ぬゆんきゃぬむな」とある。後で調べたら「飲むなら乗るな 乗るなら飲むな」と言う意味だった。酒に×がついているからそんな意味だろうとは思ったが、内地の人間はまずわからないだろうな。


近くを散歩してホテルに戻る頃には、日が沈んできた。


翌日は、マラソン本番だ。

「2022沖永良部島うとぅるしゃマラソンツアー:2日目マラソン前半」に続く。


2022談山神社

2022-11-14 18:52:29 | 観光
竜門岳登山口から談山神社(たんざんじんじゃ)に向かう。距離にして10キロほどだ。談山神社は、奈良県桜井市多武峰にある神社で、桜と紅葉の名所として知られるとの情報を得て、帰りに立ち寄ってみる事にした。

談山神社の境内案内図を見ると、本殿の裏手には二つの山があることがわかる。


まずは、入り口で入山料を払う。


入口の鳥居をくぐり石段(140段)を登っていく途中には、夫婦杉と呼ばれる巨木が立っている。ただし、この石段は、紅葉や桜の見頃以外の時期(シーズンオフ)は閉鎖されてるそうで、近くまで行けてラッキーだったようだ。


談山神社のランドマークである十三重塔をまず見に行く。紅葉を入れて撮ると絵になる場所だ。


現在の塔は室町再建で高さ17m。古塔の中では現存唯一の遺構である木造十三重は、藤原鎌足の墓塔といわれている。


十三重塔を見てから本殿に向かう。談山神社は、藤原鎌足の遺骨を摂津国阿威山からこの地に改葬し、鎌足の長男定慧が木造十三重塔(重要文化財)を建てたことに始まる。弟の藤原不比等が神殿を建立し、父の像を安置したとされる。かつては妙楽寺という寺と一体だったが、明治初めの神仏分離令後、神社だけが残ったという。


本殿の欄干から境内を見下ろすと、見事な紅葉の森が広がっている。


本殿を出て、十三重塔の裏手に向かうと、大きなイチョウの木が。鮮やかな黄色だ。


その奥には、裏山に登る道があり、折角だから山に登ろうという事になった。分岐には、談山(かたらいやま)と御破裂山(ごはれつやま)の道標があり、まず、談山に行くことにした。


談山は標高566m。西暦645年5月、蘇我入鹿暗殺をするクーデター(乙巳の変)のおよそ1ヶ月前、この辺りで中大兄皇子と中臣鎌子(藤原鎌足)が、「大化の改新」について密談をしたといわれているそうだ。


御相談所というが、密談した場所なのだ。古くからこの辺りは「談所の森」とも呼ばれているといい、談山神社の社号は、この談山(かたらいやま)にちなんで付けられたということだ。


談山から御破裂山に行く途中で、ハート型の葉が溝の中にうまくはまっていたので撮影。


御破裂山は、古来より「天下に異変が生じる時、御破裂山が鳴動して知らせる」という伝承がある山だという、山頂は、藤原鎌足の墓所と説明されている。


二つの山を登り終え、再び談山神社の境内に戻り、神廟拝所の前を通る。この建物も重要文化財だ。


祓戸社前の紅葉も素晴らしい。


一通り談山神社を堪能して参道を歩き、お土産などを買って帰路についた。初めて行った場所だったが、談山の由来から大化の改新という歴史的な出来事の発端になった場所という事も知り、歴史ロマンもかきたてられた面白い山旅となった。

2022富山マラソンツアー:3日目砺波チューリップ公園&越中五箇山観光

2022-11-10 21:51:27 | 観光
マラソンの翌日は、富山周辺を観光していく。富山と言ったら、チューリップが有名だ。今の時期だと花は見られないのだが、砺波にあるチューリップ公園に行ってみた。まずは、チューリップ公園の隣にある「チューリップ四季彩館」に寄っていく。


チューリップ四季彩館の周りの木々もきれいに紅葉している。


チューリップ四季彩館は、春の花チューリップが一年中みられる世界唯一の施設だという。四季折々の花々とチューリップを一緒に楽しめる「ワンダーガーデン」には、360度チューリップで包まれる「チューリップパレス」がある。


チューリップパレスの中に入ると、文字通り360度チューリップに包まれる。秋でもチューリップが見られるなんて不思議だ。温度管理をして咲かせることが出来るのだろう。


パレットガーデンにも、色鮮やかなチューリップが咲いている。


パレットガーデンは、鏡で周囲を覆っているので、不思議な風景が醸し出される。


万華鏡を覗くと、チューリップが無限に見えている。


「アンダーファーム」では、チューリップの成長過程や歴史が学べる。特に、チューリップの原生地から、砺波での栽培が盛んになるまでをイラストや資料で勉強できたのは面白かった。

チューリップ四季彩館を出て、チューリップ公園に向かう。遊具などのある場所を抜けると、五連揚水水車が回っていた。観光用に作られたものだというが、五連の水車は日本で唯一とのことで、存在感があり、まるで蒸気機関車が動いているかのようだった。




池の間を通ると、大きな鯉が一杯寄ってきた。


公園の中央にあるチューリップタワーに登って公園の中を見下ろす。円形花壇では、来年の春に向けてチューリップの球根の植え付けを行っていた。


この辺りの花壇も既にチューリップの植え付けが終わっているようだ。


チューリップタワーからは立山連峰が良く見える。真ん中に見えるのは剱岳だろうか。


チューリップ公園を出て高速に乗り、五箇山インターを出ると越中五箇山相倉集落に向かう。平成7年12月に,岐阜県の白川郷と合わせて,「白川郷,五箇山の合掌造り集落」として世界遺産に登録された場所だ。駐車場から、山を少し上ると集落の全景が良く見える場所があるというので、まず山を登っていく。ほとんどの観光客が、まず、最初にこの展望スポットまで歩く。




全景を見たあと、集落の中を散策していく。相倉地区は、富山県の西南端で岐阜県境の山あいに残る庶民の山村生活の姿を今に伝える合掌造りの集落である。近世には五箇山地方では米がとれなかったので,煙硝,養蚕,紙漉きが生業であり、合掌造り民家はこれらの生業に適した構造であるという。


入口にあるのが、展示館「勇助」だ。合掌造りの家は、全て人の名前のような屋号が付いている。


2階に上がると、カイコの一生のパネルがあり、勉強になった。


養蚕に励む女性の人形もあり、大変な仕事だという事が窺い知れる。


2階の窓側に子供がいるなぁと思って近くまで行くと、人形だった。


さらに、急な階段を上がり3階まで行く。3階にもカイコの棚が置いてあった。


3階も結構広く、床は隙隙となっていて、下の階が見える。1階の囲炉裏から温まった空気が2階、3階まで上がってくるようになっているようだ。


勇助を出て、周りの集落を散策する。相倉合掌集落には、20棟の合掌造り家屋が現存している。五箇山に唯一残る合掌造りの原型である原始合掌、大小様々な合掌造り家屋、茅葺きのお寺など、見どころがたくさんある。


相倉合掌集落を見てから、帰路についた。3日間ともいい天気に恵まれ、富山マラソンと周辺の観光を楽しむことが出来た。

2022富山マラソンツアー:1日目新湊大橋周辺観光

2022-11-08 22:46:42 | 観光
2015年の第1回富山マラソンに参加して以来、7年ぶりに参加する事になった。今回も前日から出発して、翌日マラソンを走り、もう1泊して周辺を観光して帰る予定だ。

1日目は、早朝から出発して東海北陸自動車道を走る。初日から天気は快晴で、高速道路から見る山並みはどこもかしこも紅葉だらけで素晴らしかった。途中で休憩に寄った、ひるがの高原SAからみた大日岳と麓の紅葉。


さて、富山には昼前に着き、娘夫婦と合流後、射水市の新湊きっときと市場でランチを済ます。新湊きっときと市場の隣は、海王丸パークだ。海王丸パークでは、海王丸という商船学校の練習船として誕生した帆船が係留されている。昭和5年2月14日に進水して以来、59年余の間に106万海里(地球約50周)を航海し、11,190名もの海の若人を育てた船だ。海の貴婦人と呼ばれる海王丸を現役中の姿そのままで公開しているのだ。ただ、通常は海王丸に帆が張られることはなく、特別な日にしか張られないそうだ。


そして、反対側に目を向けると、大きな橋が見える。新湊大橋と呼ばれ、翌日のマラソンのコースの一部となる。通常は自動車専用道だが、マラソン当日だけ車両が通行止めとなり、ランナーのみが通行できるようになる。


ちょうど、海王丸パークの桟橋から観光船が出るというので、早速乗ってみる事にした。遊覧コースは、内川遊覧&12の橋巡りとの事で、約50分で戻ってくるという。まずは、日本海側最大級の斜張橋「新湊大橋」の下を通過していく。


ウミネコが飛び交う中、工場地帯の景色を見ながら、内川に入っていく。


内川は、富山新港から東西約3420メートルを結ぶ運河で、海から海へとつながる珍しい川だ。ちょうど、万葉線の電車が前を通過して行った。遊覧船は、高架の下をすり抜けていく。


川べりには民家が立ち並び、川の両岸に漁船が連なって繋留されている風景は、どこか懐かしさを感じさせ、「日本のベニス」と称されているそうだ。


内川は、古くから地域住民の生活と深く関わりをもった川として、親しまれてきているという。


東橋。全国でも珍しい屋根付きの歩行者専用の橋。夜になると橋の両側の休憩所に明かりが灯り、大きな提灯となって浮かび上がる。まさに、「渡るだけではなく、立ち止まり、時を過ごす憩いの橋」。スペイン人のセザール・ポルテラ氏の設計


山王橋。半円形のバルコニー風のアプローチに、手をかたどった大理石の彫刻4基を設置。製作は、郷土出身の彫刻家竹田光幸(たけだ・みつゆき)氏


他にもいくつもの個性的な橋を見ながら、内川を進み、外海の富山湾に出た。遊覧船の周りには、観光客が播く餌を求めてウミネコが飛び交っている。


再び海王丸のところまで戻り、遊覧船の旅が終わった。


観光はここまでとし、急いで富山駅前まで戻り、マラソンの受付を済ませ、宿に着いた。翌朝は、早起きしてマラソン本番だ。

「2022富山マラソンツアー:2日目マラソン本番」に続く。

2022浅間・八ヶ岳パノラマトレイル:2日目懐古園観光

2022-11-03 20:44:12 | 観光
2日目のトレイルは午前中で終わり、午後の時間が十分余裕があったので、小諸駅前の懐古園を観光していくことにした。懐古園とは、元の小諸城を中心とした公園である。明治4年(1871年)の廃藩置県で廃城となった小諸城は、その後、小諸藩の元藩士らによって明治政府から買い戻され、大正15年(1926年)に小諸城址懐古園として近代的な公園に生まれ変わったという。

まず、最初に向かったのが、小諸城の入り口となる大手門だ。小諸城の正門で、慶長17年(1612)、藩主仙石秀久が小諸城を築いた時代の建築である。二層入母屋造の楼門で、石垣と門が一体化していない事や、一階が敵の侵入を防ぐ強固な造りに対し、二階は居館形式をとっている事など多くの特徴があるという。


大手門の中を見学できるという事で、早速中に入り、ガイドの説明を聞く。この門を建てる際に、大工は江戸から呼び、瓦は三河(現在の愛知県)から運んだとされ、当時はまだ瓦葺の屋根が珍しかったため「瓦門」とも呼ばれたそうだ。明治維新後は民有となり、小諸義塾の仮教室として、また、料亭として利用されてきたが、平成20年、江戸時代の姿に復原されたという。


大手門から、いよいよ小諸城址に入っていくのだが、この先には、しなの鉄道の鉄路と駅舎があり、三の門の間を割って入るように分断している。このため、大手門があることを知らずに中に行ってしまう人が多いそうだ。


三の門を抜け、二の門跡の横を通り抜ける。


少し上がったところが二の丸跡だ。


紅葉谷と呼ばれるお堀の紅葉がきれいだ。


紅葉ヶ丘もまさに紅葉まっさかりだ。




小諸城址で最大のケヤキの巨木。樹齢500年以上との事。


大ケヤキの奥には島崎藤村記念館。藤村が小諸にやってきたのは、明治32年のことだ。かつての恩師、木村熊二に招かれて小諸義塾に赴任した。以降小諸で過ごした6年余の間に「雲」「千曲川のスケッチ」「旧主人」などが生まれ、大作「破戒」を起稿。藤村記念館は、藤村の小諸時代を中心とした作品・資料・遺品が多数展示されている。


島崎藤村像。


地獄谷に架かる酔月橋を渡り、小山敬三美術館に向かうのだが、その途中になんと寅さんの像があった。葛飾柴又ではなく小諸に寅さんがいるのにはビックリ。この奥にある建物は、寅さん会館だという。個人的に寅さんのグッズを集めた人の私的な資料館らしいが、現在閉館中で見学できなかったのが残念だ。


紅葉の木立の奥にあるのが小山敬三美術館だ。この美術館は、小諸市出身で文化勲章受章、小諸市名誉市民である洋画家、小山敬三画伯が1975年、美術館を建設し、作品と共に小諸市に寄贈したもの。画伯の代表作品、浅間山、城シリーズ、さらに肖像画をはじめとした、油彩、水彩、デッサン画など素晴らしい作品を展示されている。


美術館から見下ろした千曲川の景色。小山敬三画伯がこの美術館を建てるとき唯一こだわった条件は、子どもの頃溺れかかった千曲川のこの場所が見下ろせる場所ということだったという。


美術館の庭の紅葉がひときわ美しい。


懐古園の馬場では、東信菊花展が開催されていた。


天守台跡に登ってみる。554年に武田信玄が現在の小諸市、佐久市一帯を制圧。信玄は、大名軍師、山本勘助に築城を命じた。これが小諸城の原型となった。小諸城は、城郭が城下町よりも低い位置にある日本唯一の「穴城」といわれる。浅間山の噴火による火山性台地と千曲川の断崖を利用した天然の要害で、難攻不落の城として知られていた。武田氏が滅ぶと、豊臣秀吉の配下の仙谷秀久が城主となる。秀久は、城の大改修と城下町の整備を行った。国の重要文化財に指定されている大手門や三の門はこのときに造られた。


天守台からは、浅間連山が良く見える。


鏡石。山本勘助が縄張りをした小諸城は「攻めるに難しく、 守るに易い城」いわば難攻不落の城だった。懐古神社の横には、山本勘助が小諸城築城の時に研磨したと伝えられている鏡石があり、勘助は朝夕この鏡石におのれの顔を映し反省したと伝えられている。


懐古園は、思ったより見るところがいろいろあり、微古館(ちょうこかん)や小諸義塾記念館なども見学してから、懐古園前にある小諸キャッスルホテルに宿泊する。

「2022浅間・八ヶ岳パノラマトレイル:3日目千曲川コース」に続く。

2022東北紅葉登山ツアー:2日目中尊寺、石ノ森萬画館等観光

2022-09-27 22:57:54 | 観光
2日目の当初の予定は、紅葉の焼石岳に登る予定だったが、台風15号が北上してきており、この日は東北への影響が大きくなり、残念ながら中止せざるを得なくなった。昨年も計画して流れてしまっていたので、是非とも行きたかったのだが、来年リベンジするしかなくなった。

2日目も観光に変更して、まずは、平泉の中尊寺に寄っていく事にした。中尊寺の長い上り坂の参道を進んで行くとまず出てきたのが、弁慶堂だ。


由緒書きには、「この堂は通称弁慶堂という。文政九年(1826)の再建である。藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀愛宕宮と称した傍に義経公と弁慶の木像を安置す。弁慶像は文治五年(1189)四月高館落城と共に主君のため最後まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり。更に宝物を陳列、国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である。」と記されている。


中尊寺には、青い「世界遺産平泉ポスト」がある。初めて見た青いポストだ。ポスト全体は、中尊寺に伝わる国宝「紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)のデザインを基調とした紺色で、中尊寺金色堂の柱に螺鈿で書かれている「宝相華唐草(ほうそうげからくさ)紋様」が描かれている。郵便POSTの文字や、裏面には平泉の宝物に多く用いられる孔雀、側面には世界遺産平泉のロゴマークが金色で描かれている。平泉ならではの、きれいな色合いと紋様が素晴らしい。


中尊寺本堂に入る。


本堂前の広場には、猫が悠々と昼寝をしている。周りに大勢の人がいるのに慣れているのか、平気の平左だ。なんでも、中尊寺の売店の看板猫でチビ太というそうだ。猫好きの人の絶好の被写体になっていた。


本堂には御本尊の釈迦如来像が鎮座している。


ご本尊の両側にある灯明は、かかげて以来、一度も消えることなく輝き続けていると伝わっていることから「不滅の法灯」と呼ばれている。菜種油を燃料にして灯芯が浸り、火が点るという原始的な構造の灯篭内で現在も燃え続けていて、毎日、朝夕の2回、燃料の菜種油を絶やさないように僧侶が菜種油を注ぎ足し続けている。気を抜くと燃料が断たれて火が消えることから「油断」の語源になったと言われているそうだ。


本堂のさらに奥に進むと、有名な金色堂だ。およそ800年前に造られ、その後一度も焼失することなく当時の姿を今に伝える国宝建造物第一号である。建物は漆の上から金箔を張った阿弥陀堂で金銀・螺鈿(らでん)・蒔絵で装飾された堂内部の須弥壇の下には初代の清衡公、二代の基衡公、三代の秀衡公の棺と四代泰衡の首級が安置されている。まさに世界遺産となった平泉黄金文化を象徴する建物だ。ただ、金色堂自体は、撮影禁止で、覆堂の中に隠されている。


この金色堂の脇に、ひっそりと建っているのが芭蕉翁句碑だ。松尾芭蕉は、この金色堂に立ち寄った際に「五月雨の 降り残してや 光堂」という句を詠んだ。


松尾芭蕉の銅像。


金色堂旧覆堂。約500年もの間、金色堂を風雨から守ってきた堂で、鞘堂とも呼ばれていた。金色堂旧覆堂は室町中期頃のものと考えられている。1963年(昭和38年)、金色堂の解体修理とともに新たな覆堂が建築されたことに伴い、現在地へ移築された。


中尊寺を出ると、「石と賢治のミュージアム」に寄っていく。岩手県一関市東山町にある市立博物館である。「みんなのほんとうの幸せ」を求め、理想郷創造に邁進した技師宮沢賢治の心と生き方に触れるミュージアムで、「雨ニモマケズ」が生まれるまでの足跡を、手紙や写真で説明している。また、賢治が東山町を訪れるきっかけとなった旧東北砕石工場も併設されている。


ただ、残念ながら午後から臨時休館になってしまい、展示室の中には入れず、屋外の施設だけを見学していく。


東北砕石工場の石を運ぶトロッコのレール道を歩く。


こちらが本来の入り口らしい。


トロッコがあったので、実際に乗って動かしてみる。


旧東北砕石工場は、地元で産出された石灰岩の砕石を行い、酸性土壌を中和する石灰石粉を製造する施設として、大正13年に建設された。その後、機械の増設に併せて工場自体も拡張され、現在の形状となった。この石灰石粉は、後に宮沢賢治によって「肥料用炭酸石灰(タンカル)」と命名され、ここで製造された製品は当時の雫石町の小岩井農場に輸送され、土壌改良剤として使用されたという。平成8年に国の登録有形文化財に登録されたこの建物は、晩年の宮沢賢治が技師として働いたことでも知られる砕石工場の遺構で、石と賢治のミュージアム(太陽と風の家)として公開されている。


東北砕石工場技師となった宮沢賢治が1931年3月26日に工場を訪れたとき、鈴木東蔵や工場の人々と記念写真を撮った。「群像のひろば」には、そのときの写真をもとにした群像がつくられている。




その後、仙台方面に向かうが、途中で石巻市の石ノ森萬画館に立ち寄る。石ノ森萬画館は、石巻市中瀬に立地する、宮城県出身の漫画家・石ノ森章太郎の記念館だ。宮城県登米郡石森町で生まれ育った石ノ森章太郎は、中高生時代、自転車で2~3時間かけて石巻市の映画館「岡田劇場」へ通ったことから、石ノ森は石巻市を第2の故郷としていたという。


石ノ森萬画館の入り口では、サイボーグ戦士や仮面ライダーの像が迎えてくれる。


石ノ森章太郎の実寸大の手と握手する。


石ノ森章太郎が若手漫画家時代に入居していたトキワ荘の模型。他にも多くの漫画家が居住していた。


サイボーグ戦士たちのコーナー。


仮面ライダーのコーナー。


人造人間キカイダー。


「HOTEL」のお馴染みキャラクターが出迎えてくれる。


17時の閉館の音楽と共に、石ノ森作品のお馴染みキャラクターが宇宙船の中から登場してお別れだ。


仙台に着くと、駅前の東横インに泊まる。3日目は天気が良く、山にも登れそうだ。

「2022東北紅葉登山ツアー:3日目泉ヶ岳登山」に続く。