prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

6月22日(木)のつぶやき

2017年06月23日 | Weblog

「馬と呼ばれた男」

2017年06月22日 | 映画
アメリカ先住民に捕えられたイギリス貴族がいったん奴隷あるいは馬扱いされるが、先住民の通過儀礼の儀式をひとつひとつ克服し部族の女と結婚することで同化するが、やはり同化しきれず出ていくという、いわば「ダンス・ウィズ・ウルブス」の先行作品。

ただ出演者はギリシャ系、ハワイ生まれ、イタリア系といった具合で「ダンス…」みたいに本物の先住民はおらず、やはりカラード風でも白人、いわゆるホワイト・ウォッシングが今より目立つ。

白人酋長ものといって白人が野蛮人の群れに入ってそのリーダーになるといったお話の類型があり、「ターザン」や「アラビアのロレンス」などもそのバリエーションだろうけれど、おそらくそれと製作時は先住民の文化を再現し顕揚するというカウンター・カルチャーの一環としての狙いが混ざっている。
先住民の生活の学術的な再現という点でかなり冒険的な企画だったろう。

これは'70年製作だが、白人が有色の「野蛮人」の奴隷になるという図は同じ時期の'68年製作の「猿の惑星」に通じるものがあるだろう。(「猿」は原作者ピエール・ブールが日本軍の捕虜として泰緬鉄道建設に使役された体験が投影されていると言われている)

冒頭にカール・ボドマー Karl Bodmerの画(※)を参考にしたと出る。19世紀スイス生まれの画家で、イギリス貴族に雇われまだ未開のアメリカを旅行した時に目についた先住民の生活・風俗をスケッチしたものが重要な資料として残っているというわけ。
続編の「サウス・ダコタの戦い」(原題The return of a man called a horse)の方がさらに絵画の色彩から構図から徹底して再現している。
胸に鉤爪を食い込ませて宙に吊るす儀式は、続編では胸の肉がちぎれるところまでやっていた。

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(※)



6月21日(水)のつぶやき

2017年06月22日 | Weblog

「光をくれた人」

2017年06月21日 | 映画
孤島の灯台にほとんど一人で過ごしている男が港町の若く(とんでもなく)美しい女性と結婚して島で二人だけで過ごす、女性は妊娠するも医者もいない島とて二度も流産して嘆きの淵にいるところになんとボートに乗った死んだ男と赤ちゃんが漂着して、赤ちゃんを自分の子供として育てようとする、けれど本当の親が現れてというストーリーは予告編で見当がついていた。

実際に見てわかるのは、男が第一次大戦から戻ってきて、戦争後遺症で無感情・無感動になっていて、さらに他が大勢死んでいるのに生き残ったことへの一種の罪悪感(suvivor guilt)を持っていて、それが後半の展開にも関わっているということ。

ただストーリーが進展するシーンの処理がなんだか曖昧というか、他にありえないからそうなのだろうと理解はできるけれどメリハリをもって観客に打ち込まれないところが散見する。正直、ちょっと展開に納得できないところもある。

大ロングショットで捉えられた風景がまことに美しく、クロースアップで捉えられた主役二人の顔がまた美しい。
(☆☆☆★)

光をくれた人 公式ホームページ

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6月20日(火)のつぶやき

2017年06月21日 | Weblog

「海辺のリア」

2017年06月20日 | 映画
登場人物というか出演者は五人だけ、舞台はほぼ海岸とまことにミニマムな構え。
ハムレットではないけれど「言葉、言葉、言葉」という感じだが、海辺というおよそ平板といえばこれ以上ないくらい平板な背景で、縦の構図、つまり役者を画面の奥から手前にかけて動かすようにして(ピントを送るのが大変そう)、舞台劇っぽいモチーフをロケの空気と立体感の中に展開してみせる。

ミニマムな分、芝居をみっちり見られるのは確かで、単調なのは見る側も(少なくとも自分にとっては)織り込み済みではあります。

原田美枝子と共演していることからも「乱」とつながっているのは明らかで、老いてボケかけているが財産はある元スター俳優に対して一種陰謀を企むような娘(ゴネリルやリーガンというよりやはり楓の方に近い)の役を振り、対して一見つっけんどんながら実は誠実な娘(つまりコーディリア)を黒木華にやらせている。初め黒木華は孫の役かと思ってた(仲代との実年齢差58歳)。

「リア王」を認知症として描く解釈はかなり前からあって、鈴木忠志演出の舞台で幕開きに入院中の老人と看護師が現れて、それが本筋に入るとリアと道化になるという演出もあった。実際、他国の領主が傍らにいる席で家族争議を起こすというのは少なくともかなりヤキが回っていると言えそう。
認知症という意識が解体していくような症状を「演技」という意識的な行為で表現するのはそれ自体矛盾を抱えているわけで、リアリズムよりも通常の視点から世界を眺める寓話的な作りになる。ミニマムな作りがそれにふさわしくはある。

どの俳優の言葉だったか、リア王というのは何もしないで(できないで)苦難に翻弄されるような役だから一見楽だが、実際にやるとなるとすごい体力がいる、リア王の実年齢になったらムリですという話があったが、仲代先生、リア王そのものではないにせよ「乱」の秀虎とはまた違う形でパワーを見せつける。体力そのものは落ちているに決まっているので、それが演技の技ということになるのだろうか。

海辺のリア 公式ホームページ

映画『海辺のリア』 - シネマトゥデイ

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6月19日(月)のつぶやき

2017年06月20日 | Weblog

ブリューゲル「バベルの塔」展

2017年06月19日 | アート












http://www.tobikan.jp/











小さい作品が多い(もともと教会ではなく、個人宅に置くことが多いかららしい)ので、混雑していて後ろから離れて見ないといけないとなるとかなり見ずらい。美術館側もその点は考慮済で拡大した画像を上や横に置き、「バベルの塔」に至っては壁全体にほとんど本物の塔があればこれくらいの大きさになるのではないかという数分の一のスケールで展示していたのがありがたいところ。

また細かいところまで描き込んであるのです。異形でしかもなんとなくおかしい姿はちょっと水木しげるを思わせたりした。


ブリューゲル「バベルの塔」展 公式ホームページ



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6月18日(日)のつぶやき その2

2017年06月19日 | Weblog

6月18日(日)のつぶやき その1

2017年06月19日 | Weblog

お題「ラジオは聴きますか?」

2017年06月18日 | Weblog
ラジオはよく聞きます。テレビより長いこと接しているのではないかな。

基本生放送で、聴取者とやりとりしながら進行していくのが親近感があるし、比較的時間をかけてじっくり話が聞けるのと、テレビより踏み込んだテーマを(まだ)扱えるのがいいところです。
生ならではのハプニングがもろに放送されることもあって、ピエール瀧の遅刻が実況中継されたのはケッサクでした。

ただあまり聞かない局で聞きたい番組があった場合、とにかくビデオ録画を予約しておくみたいな使い方はおよそしにくいのが難点です。予約録音アプリなんていうのもあることはあるのだけれど、パソコンの電源入れっぱなしにしないといけなかったりであまり使えない。

入院していた時はテレビはほとんど見ないでずうっとラジオを聴いてました。金かからないしね。

「LOGAN/ローガン」

2017年06月18日 | 映画
これだけ子供が直接暴力に関わる映画というのも珍しいのではないか。前はアメリカ映画では子供に暴力をふるう場面と警官が市民に撃たれる場面というのは基本タブーだったはずだが、完全にすっとんでいる。子供を「守る」話にありがちな臭みが薄く、子供が未来への希望そのものであるには違いないけれど背負うものもまた重いのを承知の上の希望といった靭さがある。

ミュータントといえども生き物であり老いて衰え死んでいく存在という視点をこれだけはっきり出したのは覚えがなく、ひとつのLIFEの終りを見届ける格調という点でアメコミものの中で頭ひとつ抜けている。

エンドロールにset teacher of Miss Keen誰それと出る。ローガンが守る(というか、一緒に旅する)少女役ダフネ・キーンは当然就学年齢だから撮影中についた教師ということだろうけれど、Missというのは最近あまり見ない気がした。男がMr.で未婚既婚関係なく使えるのに女は未婚はMissで既婚はMrs.と分けるのはおかしいということでたいていMs.で統一されているものだけれど、あんまり若いからわざわざMs.というのもおかしいということだろうか。

CGもずいぶん使っているはずだけれどいかにもCGという感じは薄く、一種埃っぽいリアリティがある。
「シェーン」が引用されているとは聞いたけれど、ああ多いとは思わなかった。あのラストでThe Endと出るバックに十字架が見える、というのは割と有名でシェーンが死ぬ暗示になっているという見方もあるが、それもひっくるめて引用している。
(☆☆☆★★★)

LOGAN/ローガン 公式ホームページ

映画『LOGAN/ローガン』 - シネマトゥデイ

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6月17日(土)のつぶやき

2017年06月18日 | Weblog

「パトリオット・デイ」

2017年06月17日 | 映画
良くも悪くもテロリスト二人の描写を最小限にとどめ、考えの足りない凶悪犯という以上の背景を一切切り捨ててシンプルな捜査と確保劇に徹している。正直あそこまでアホだったのかという気もしないではないし、悪役が手薄だと全体も軽くなる弊は免れていない。

ほんの四年前の事件を実在の人物と実名でドラマ化するというスピードといつでも表に出て戦う姿勢はいかにもアメリカ。戦うというのはテロリストに対してというだけでなく、顔と名前をさらし個として他と相対する用意ができているということ。

さまざまな捜査機関や市・州・国といったレベルが絡み合いどこが主導しどこが責任をとるのかといった問題がついてまわるあたりもややこしくもリアル。

テロの再現のリアルさとスケール、テレビでは映らない惨状などアメリカ映画としては当然ながらさすがに迫力がある。テロリストが銃を撃つだけでなく手持ちの爆弾を使って逮捕に抵抗、町中でどかんどかん車が爆破されるあたり、本当にこんな大騒ぎだったのかと驚く。

ウォルバーグがドアを蹴破って突入しようとしてなかなか破れず膝にケガするというオープニングに笑う。あんなに簡単に蹴破れるわけないよなあ、といつも感じていた漠然とした違和感に映画の方が答えたみたいで、この後のリアリティのトーンも決めている。

ストリートをよく知っているマーク・ウォルバーグの停職明けの刑事が爆破地点周辺を再現した実物大の見取り図の上で犯人がどう動くとどこの監視カメラに写るかを指摘してまわるあたりは捜査の描写としてスリリングな一方で、こんなに監視カメラがあるのかとひやっとさせられる。監視カメラの画像解像度とAIが発達するとこういう膨大な映像の中から分析・抽出するのが容易になるのではないか。

MITに留学している中国人学生が重要な役だったり、世界に流れるニュース映像がアラビア語と中国語だったりするあたり、今の世界で気を使うべき相手が見て取れる。
(☆☆☆★★)

パトリオット・デイ 公式ホームページ

パトリオット・デイ|映画情報のぴあ映画生活

映画『パトリオット・デイ』 - シネマトゥデイ



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6月16日(金)のつぶやき

2017年06月17日 | Weblog