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『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

3.11の朝

2020-03-11 07:10:00 | 風景
9年前の今日、
2時46分に
どえらい目に遭うとも知らず、
ノコノコと近所の文具屋に
買い物に行っていた。

突然の大揺れに、
慌てて店の外に出た。

店内の品物が
音を立てて崩れている。

ただ事じゃない…。

同じく、飛び出してきた客たちも
不安と動揺に顔が青ざめている。

すると、ガクンと
腰が折れそうになるほどの
激しい横揺れと
ゴゴーッという地鳴り。

目の前の電柱が
メトロノームのように
アレグロのテンポで
左右に振れている。

長い…大きい…
いつまでも揺れが収まらない。

恐怖心が湧いて、
思わず、立ち尽くしたまま、
合掌してご祈念した。

「どうぞ、揺れを収めてくださいーッ!!!」

…(((T人T ))) ブルブル

そしたら、また、
一段と大っきな揺れが…

ヒェ~ッ !! ε=ε=ε=ヾ(*。>◇<)ノ マタキタ~ッ!!

目の前の4号線では、
クルマがぜんぶストップして、
中から人が降りてきて、
女性は抱き合って、
「キヤー、キャー」
悲鳴を上げている。

(世界がオワルのか…)
と、刹那に思った。




3.11当日だけで、
震度5を含む余震が
200回以上あった。

まだ、原発は爆発していない。
内陸部なので、津波の心配もない。

それでも、
一晩中、大揺れ、中揺れのなかで
まんじりともせず夜明かしした。

小雪が降る寒い日だったが、
玄関扉が歪んで開かなくなるのを懸念し、
一晩中、半開きのままにしておいた。

だから、家ん中は
屋外と同じ寒さだった。

それでも、未だ、生きていた。




そして、
原発が大爆発した。

それも、3機も…。

放射能が空中に飛散し、
屋外は25μ㏜/hとなった。

レントゲン撮影1回が
50μ㏜(マイクロシーベルト)なので、
2時間で1回分の被爆量だった。

平穏な日常が、
かつてない放射能汚染に
見舞われた。

大地は揺れ続けている。
一日、何百回も…。

水は出ない。
幸いにも、停電だけは
地域的に免れた。

夜の灯かりが
確保されていただけでも、
どれだけ心強かったことだろう。

そして、パソコンが使えたから、
情報収集ができ、
被害状況やパニックの現状を
ブログに発信できた。

これも精神衛生にはよかった。

すこし気を取り直すと、
浜通りは「被害の当事者」
会津は「被害の外」、
となると、中通りの人間が、
中程度の被害を受けながらも
避難者を受け入れながら、
尚且つ、この惨状を
世界に向けて発信せねば、
という使命感にかられた。

と言っても、
アウトプット媒体は
日常の「ブログ」に限られた。

でも、キーワードで検索されれば、
ヒットするし、翻訳ソフトを通せば、
当事者のローカルな現状は
世界中どこからでも分かるはずだ。

https://gold.ap.teacup.com/fumiakinatu2009/645.html

その後、
『3.11 を生きる』というサイトで、
現在に至るまで連載を切らしていない。

https://ncode.syosetu.com/n6240s/

「超巨大地震・超巨大津波・超規模原発事故という
人類未曾有の超規模複合災害を、フクシマの人間は、
どう生きたらよいのか…」
というのが、メイン・コピーである。

今朝もこれから、
『9年目の朝』というタイトルで
今の心境を綴ろうと思う。

たまたま、今日現在の
アクセス数をのぞいてみたら、
「22,395人」とあり、
3.11の死者2.2万人と同数で
ゾッと鳥肌が立った。

やはり、
言える者、語れる者が、
何をか言わねばならない、
と改めて思わされた。




2014年から6年間、
持ちだしのチャリティーで
『復興支援リサイタル』を
続けてきた。

還暦を過ぎてからの
「楽団ひとり」の活動は
正直シンドかったが、
でも、6年間はやりきる、
と日切りして腹を括った。

何から何までの
セルフ・マネジメントと
連日練習と気遣いで
ずいぶん命を削ったので
けっこう寿命が縮んだかもしれない(笑)。

3.11当時は、
市内の全避難所(18ケ所)を
ボランティアでASD/PTSDの
ケアに巡回した。

自分に出来ることは、
祈ることとカラダを使った
奉仕だけである。

「あなた」と呼べる
二人称関係の人たちが、
津波に呑まれ、肉親を失い、
自殺もした。

今も、かつての特別避難地区、
現・復興特区でもある
山間部の僻地のY中に
出向いている。

新年度からも
全校生3名である。

それでも、
全力で被災地区の支援をする。


 みつとめの奉仕淡々と
 出来るだけ淡々と
 われにつづけ得しめ給へ


 遅遅たりといへど
  後退することなく
 わがゆく道を歩ましめ給へ


 春風に似たるこころを持ちたしと
  吹く春風に
  吹かれつつ思ふ

            碧水先生御歌











北の花火

2020-03-10 07:56:00 | 仕事
生徒は一斉休校だが、
教職員は対象外なので、
職員室には大勢の先生方が
年度末のデスクワークに追われていた。

それでも、心なしか、
平時よりも雰囲気が穏やか
和やかで、生徒がいなくて、
授業も部活もなくて
存分に事務仕事に専念できるので
気楽なようにも見えた(笑)。

カウンセリング室のある
生徒側の校舎に移動すると
まるで人の気配がなくて、
なんだか、休日出勤したような
不思議な静寂さに覆われていた。

カウンセリング常連の生徒たちは
予約どおりに
登校してきてくれた。




不登校のT君は、
「何かやりたいことはないの?」
と尋ねたら
「ピアノで『情熱大陸』が
弾けるようになりたい」
という大望を教えてくれたので、
ならば、鍵盤楽器の基礎からやろう、
ということで、小学時代の
ピアニカ(鍵盤ハーモニカ)を持参させた。

50分でどこまで出来るか
見物だったが、
まずは左手の「ドソミソ」の
Cコードのアルペジオを
(10回×5)×5=250回
テンポを超スローから爆速まで、
半分は目を閉じてやらせてみた。

その際、
正しいポジショニングを取るのに
手の甲にボタンを一つ乗せて、
それを落とさないようにと厳命して、
ゲーム感覚でやらせてみた。

ボタンは何度も落ちたが、
段々と慣れるにしたがって、
落ちなくなり、それを外したら、
手の位置がキレイに固定された。

次に、『ちょうちょ』の出だしの
「ソミミー」の3音を右手で覚えさせ、
両手を合わせて弾くように指示したら、
案の定、アタマがこんがらがって
パニクッていた(笑)。

それから、簡易譜面を書いて、
ヴィジュアルに構造を視認させ、
「こことここが、合わさるんだ」
と三点の二声部を発見させてから、
三つのクラスター(団子)に
分解させて一つずつ覚えさせた。

最後に三ケのダンゴを
一本の串に刺すと
「ソ・ミ・ミー」+「ドソミソ/ドソミソ」
が完成する。

50分前には
全く未経験の「0」状態から、
自分の両手が独立運動して
ワンフレーズを奏でるのを
見聞きすると、たいていの人は
驚き感動する。

「ヒャーッ!! できたーっ!!」
と喜色満面になったので、
思わずふたりで握手した(笑)。

脳内で新しいニューロン・ネットワークが
この瞬間につながったのである。

乗れなかった自転車に
乗れるようになった瞬間と
同じである。

独立運動の
ワンフレーズさえできれば、
次は「ソシレ」のGコードに変えて、
後はCとGだけで
一丁出来上がり!
…である。

定型発達の子だったから、
50分の1セッションで習得できたが、
これが発達障害の子だと、
3セッション以上かかってしまう。

そこから鑑みても、
ニューロン・ネットワークから
得られる適応性、順応性において
明らかに定型群と
機能性の差を感じる。

これが、
所謂「不器用」に
関係しているのだろう。

それでも、
これに類したトレーニングで
レパートリーを増やしていけば、
ネットワークは密になり、
回路的にショートカットも生じてきて
スムーズな協応反応(coordination)が
得られるようにもなる。



T君も
初めてブレイクスルー体験をして
嬉しかったのか、
帰り道でもずっと
運指のイメトレをやってたようで、
目撃した先生方から
「両手を動かしながら
ニコニコして帰りましたよ」
とのご報告を受けた。





出勤時の車中で、
スーツの一部にシミを発見したので、
職場に着いてから、
セッケン水で濡らして
揉んだりしたが
落ちなかったので、
仕方なく内ポケットにあった
共布の糸をほぐして
得意の糊張り修復をした。

縫い目の畝(うね)に
2本ほど圧着してから、
家で入念にブラッシングしたら
まったく見えなくなって
やれやれ一段落であった。

プロに頼めば
万取られる作業だが、
DIYだとタダで済むから、
面倒とは感じず
楽しい修復作業と思っている(笑)。



年度末なので、
出勤印の掃除をしたら、
ホコリか屑が
ポロポロと取れて、
印象がスッキリした。

一年分の生徒記録で
ファイルが分厚くなった。

手書きの執務記録も
70頁ちかくあり、
ようも書いたもんだと思った。

室内に掛けてある書は
茶道の同門でもある先生に
教員退職時に書いて頂いたもので、
気に入っている。

「周りに捉われることなく
自在に、楽しく、安らかに、往くこと」
という、
望みとする生き方に
ピッタリである。




ここ最近、
コロナ・パンデミックと
株価暴落がセットで
ニュースになっている。

たった一種のウイルスが
人間の構築してきた
経済システムを揺るがしている。

もっとも、それとて、
資本家、投資家という
人間が関与しているので、
「欲」と「不安」が交錯して
マネー変動に投影されているのだろう。

この世界的な騒動の最中、
北鮮の将軍様は、
二回もミサイル花火を上げて、
あたかも、他国の不孝を
祝してるかのようだ。

そのくせ、お父っつぁんと同じ
肥満・糖尿病なので、
コロナを忌避して
部下に直接面会を禁じている。

中国との国境が封鎖され、
食料危機もあり、
韓国にはマスク提供を申し出たものの
すげなく断られたので、
その腹いせでの
ミサイル花火だったのかもしれない(笑)。

サーズ/コロナと
二度も世界規模のパンデミックを
引き起こした中国は
世界からバッシングされて
然るべきだろう。

そしたら、それを後押しとして、
『天安門事件』の時のような
若者、識者の民主化革命が
起こるやもである。

「2.26」のような
人民解放軍内部からの
武力蜂起が起こり、
独裁政権が転覆する可能性もある。

もっとも、
革命派と親政権派との
内戦になる事もありうる。

このご時世では、
まさか「鎖国」するわけにも
いかないだろうし…。

「鉄のカーテン」にも似た
「赤いカーテン」の向こうでは、
この「武漢熱」騒動で、
どんな酷い、非道な
人権侵害が行われているのか、
あとから漏れ伺うことが出来るだろう。



ミアちゃんを
虐待死させた親父が、
言うに事を欠いて、
娘が自ら望んでしたことだ、
とほざいているという。

こいつアタマがおかしい。
罪を逃れたい一心としても
低脳すぎる。

読んでて、
久しぶりに胸クソが
わるくなった。

【一罰百戒】
【頂門の一針】
で、留まらない虐待親への
見せしめのために、
「殺人罪」で死刑にすればいい。

中国なんて、
100万の経済犯や
詐欺罪でも、
死刑だって…(笑)。

スンゴイよねぇ・・・(笑)。
こういう時は、
厳罰国家が羨ましい(笑)。



今朝の
「一言ユーモア」欄は
なかなか秀逸だった。



明日は、
9年目の「3.11」である。

忘れもしない、
あの2時46分には
心して黙祷を捧げようと思う。


















パンデミック

2020-03-09 07:59:00 | ノンジャンル
アメリカのCDCでは、
「COVID-19」は
パンデミック段階に入った、
と宣言した。

ABCのキャスターも
「COVID-19」と報じていたが、
日本では未だに
「新型コロナウイルス」
という呼称で通している。

MERS/SARSは、
WHOの共通呼称で
統一しているのに、
怪訝思わざるを得ない。

もっとも、
世界各国でも
「コロナ、コロナ」と
怖れて、日本人を突き飛ばした
パリジェンヌがいて逮捕された。

ヒトのゲノム解析を完遂した人類が、
早急に新型ウイルスの遺伝子解析から
創薬ができないというのも、
なんだか、ローテクな気がしないでもない。

それこそ、こういう分野にこそ、
スーパーコンピューターや
量子コンピューター・レベルの
AIを活用して、
「アナライズ&クリエイト」
できないものだろうか、と思う。

AI活用で、
最も期待される領域だと思うが、
どんな道も“専門バカ”になると、
バーズアイ的思考が
できなくなるのかもしれない。




玄関室礼を
「雛飾り」から改めた。

我が家では、
茶人のトーチャンが
もっぱら室内装飾を担当している。

それは、新婚時代から
35年も変わらない。

昔は、正月だけは
華道の心得のあるカミさんが
「正月の花」を活けていたが、
もう何十年も
トーチャンに任せっきりである(笑)。

落語のなかでは、
「茶人だねぇ…」
というフレーズは
「暇人/好き者」
という揶揄として
よく使われる。

常々、夫婦そろって
東京で一人暮らししている
次男の心配をしているので、
ついつい彼の中学時代の作品を
選んでしまった。

なにしろ、
引っ越ししたら、したで、
段ボールを解かずに
そのまんま暮らしてる奴で、
以前には、アパートの浴槽を
洗わないまんまで
シャワーばっか使ってるから
真っ赤っかにしちまった奴である(笑)。

仕事もヘビーでブラックなSEなので
過労による体調不良を心配している。

そして、こ奴、親がメールしても
なかなかレスを返してこない(笑)。

兄の結婚式では
青い顔してクスリを呑んでいた。

だから、心配しちまうワケである(笑)。

彼の作品に採り合わせたのが、
無意識のなせる業なのか、
偶然にも、信楽の中鉢と
花入になった。

中鉢は、古物店のワゴンに
ワンコインの値札で出されていたが、
どう見ても万は下らない
作家物、穴窯物の逸品だった。

殊に、裏っ側の景色となってる
「トチン」跡は
まるで、星座か曼荼羅のようで
気に入っている。

トチンとは、
窯詰の時に使う焼台のことで、
陶磁器を乗せる枕という意味の
「陶枕:とうちん」から来ており、
くっつき防止の窯道具である。

このような目跡も
作家は計算しているので、
鑑賞のポイントでもある。

花入も偶然、信楽を選択したが、
これは過日、旧勤務校だった
金光大阪高で講演に招かれた際に、
打ち上げ会で、元同僚で
一緒にお茶を習ったS先生から
頂戴したものである。

嵐山在住の作家、
後藤安久さんのもので、
一緒に「ゴトー」まで買いに行った際、
彼が求めた高価な逸品で、
それに惚れ込んでしまい、
「先生の形見分けの時にちょうだいね」
と、冗談を言ったものだった。

どちらも、
連ドラ『スカーレット』で
信楽作家の神山清子さんの逸品を
毎日、視ているので
洗脳されたのだろう。

それと、今、ドラマの中で、
息子のタケシの白血病を
母親のキミコがどう告知するか、
という逡巡の場面なので、
次男の健康を心配するのと
かぶったのかもしれない。

毎日、家族全員の無事達者は
朝夕と、神前でご祈念させて頂いているが、
こうして、玄関に作品を飾ると
カミさんも朝夕と目にするので、
必然、彼への思いを
こころに惹起させることだろう。

「心配」という字は、
「心を配る」ということで、
「思い」「願い」は、
脳内のニューロン・スパークが
波動エネルギーとして
時空を超えた「量子もつれ」として
作動するのではないかと信じている。

デヴィト・ボームの言う、
現象界である「明在系」でのエネルギーは
すべてが一つにつながって通底している
「暗在系」で、「量子もつれ」的な
シンクロニシティを起こす、
ということがユングとの共同研究で
明らかになっている。

まさか、
玄関の室礼ひとつに、
量子効果や深層心理学が
絡んでいるとは、
改めている最中には
思いもしなかった。

まさしく、
「I am !」の世界
である・・・(笑)。




棚中カウンセリング室から
引き揚げてきた自作油彩画が
長らく物置部屋に
塩漬けになっていたが、
4月から新任する学校で
再度、日の目を見れそうである。

数点あるので、
それらを飾れるような
きっちりした場であればいいのだが、
期待と不安と半々である。

それと、
Y中のコーディネーター
(秘書的事務方)を
してくれていた新卒の養護の先生が、
離任されると聞いて、
ちょっとガッカリしている。

旧「福女」卒で、
川向うの小倉寺の近所だったので、
親近感があり、人柄も謙虚で
仕事も有能でよくしてくれて、
指導のし甲斐もあったので
残念である。

願わくば、
新任校と共に
謙虚・有能…できれば、
美人であってほしいものである(笑)。



だいぶ以前に、
家中に分散して
塩漬けになってたスピーカーと
古いアンプ類を
主の居なくなった子ども部屋に
寄せ集めて、一大「音場」を
創りあげてみた。

ナッちゃんが
帰省した時に、一度、
『スターウォーズ』のCDで
3つのスピーカーから
音出しをしてみせたら、
その大迫力に驚いて笑っていた。

ギターやウクレレだの
小物類はアパートに持って行った彼も、
スピーカー・システムは欲しいようだったが、
さすがに、集合住宅では
パフォーマンスを活用できないと踏んでか
断念したようだった(笑)。

今の子たちは、
イヤフォン派が多いようだ。




Y中の新年度の
年間勤務予定が決まった。

新任校の教頭からは
未だに連絡が来ないので、
年間予定をどうするつもりなんだろうか、
とちょっと気になっている。

まだ、入試が終わったばかりで、
卒業式や合否発表もこれからなので、
SCのことなぞ
かまってらんないのだろう(笑)。

生徒は一斉休校だが、
クライエントになってる子たちは
それに関係なく出校してくるので、
今日も、家庭訪問を入れて
5件ほどカウンセリングがある。

これから、弁当作って、
さぁ、出勤である。

コロナらないよう、
気を付けよっと・・・(笑)。



《感染列島》

2020-03-08 07:09:00 | 風景
今朝の朝刊で、
「いわき」でクルーズ船下船者が
一人発症したというのを知った。

これで、とうとう、
フクシマ《感染列島》地図に
赤々とマーキングされた。

感染者数は、
約1.200人で
死者は13人なので、
日本における致死率は
およそ1%である。

世界平均では、
3.4%というから、
日本の高い医療水準が
それを留めているのかもしれない。

いずれにせよ、
「60歳越え/慢性腎臓病/糖尿予備軍」
のハイリスクなので、
感染だけは避けたいものである。

なので、
できるだけ、
政府に要請されるまでもなく
「不要不急」の人込みへの外出は避けているが、
近所のツタヤ詣では習慣となって
毎日のように行っている。

そしたら、
一斉休校になってから、
明らかに中坊たちが
群れだってたむろしていた(笑)。

そりゃ、そうだろう。
あの年頃で、家にジッとなんて
してられるもんか・・・(笑)。

ただ、今回の
アウトブレイクの一因には、
無症状性の若者たちが
キャリアとなって
感染を拡大させたというので、
たまり場への外出の自粛要請を
お上から出された。

うちに持って帰って
爺ちゃん、婆ちゃんにうつしては
不孝者の孫になってしまう。




毎シーズン、
フキノトを採りに
「びっき沼」を3-4回も
訪れている。

きのうは、
今シーズン初の
採集に出かけてみた。

沼には薄氷が張り、
あちこちにまだ残雪が見られたが、
日の当たる南向きの土手は
さすがに芽吹き始めていた。

毎年のことなので、
もう、どこにクラスターがあるか
知悉している。

獣なら「狩り場」だが、
山菜は「採り場」である。




冬枯れの
茶色の落ち葉の中に
ひときわ目立つエメラルド・グリーン。

その対比効果に
心がくすぐられる。

根茎でつながっているので、
ひとつ見つかると辺り一帯に
何個も生えている。

これが食べ物で
市場価値もあると思うと、
ついつい目ん玉が「$」になり、
ウホウホ言いながら
指先でブキブキと手折っていく。

きのうは
あらかた採りつくして
30ケほどの収穫になったので、
半分はM先生んとこに寄って
おすそ分けした。

帰宅後、すぐに、
熱湯で灰汁抜きしてから、
フードプロセッサーで
味噌、素炊糖、水飴、甘酒、
日本酒で撹拌し、
それからフライパンで炒って
アルコールを飛ばした。

三種の甘味を使うのがミソで、
白砂糖のみでは
味がフラットになるのを
テイスティングして改良した。

出来上がった「ばっけ味噌」は、
酒によくって、おまんまにも佳い、
佳肴、佳菜になった。



ただ、今年のフキノト採りは、
例年のように“こころ踊る”ような
ワクワク感があまりなく、
収穫後の満足感も薄かった。

思うに、コロナ騒ぎの不安感で
いくらか抑うつ的気分になって、
ベースラインが
下がっていたのかもしれない。

重症者は肺のレントゲン写真が
真っ白になるというから、
そうなって喘息みたいな
呼吸困難で死ぬのも、
癌で何か月も苦痛を伴うよりは
マシかなぁ…とも、
死に様についても考えた。




今週のY中の卒業式に着る
衣装合わせをしてみた。

事前に訊いてみたら、
先生方は礼服か袴だというので、
自分は黒礼服でなく「袴」派の
カラフル路線でいくことにした。

校長・教頭・担任は
卒業証書授与を執り行うので、
礼服が正装だが、
こちとら参列嘱託職員なので
すこしでも華やかな方が
春めいて、寿ぎ感があって
よかろうかと思う。

女性教員の袴のカラフルさに伍する
カラーリングをコーデしてみた。

姿見で自撮りするには、
おへそんとこで
カメラ構えなきゃダメだって
初めて気が付いた(笑)。



毎日、YouTubeの
『エハン塾』を視ていて、
大分とスピリチュアルな命題に
ブレイクスルーが起こりかけている。

今の最大の関心事は
「I am」
(私は在る。私である)
ということは、
「Thinking」(思う/考える)
「Doing」(する/行う)
よりも上位の根源的なこと、
ということである。

モーゼが
十戒を授かったシナイ山で
神に対して
「あなたは誰ですか?」
という問いに
「I am」
と神は応えた。

それがヘブライ語の
「ヤハウェ」だという。

「私は在りて在るものである」
「私は在る」
というのは
主体的な自意識を持つ「存在」
それが神であり、
「I am」である。

イエス・キリストが
一貫して言っていた
「あなた方は神の子である」
というのは、まさしく、
「I am」という自意識、
自分という存在感こそが
「神」の実態ということである。

金光教教祖も
「この方も神、その方も神」
と仰っていた。

キリストは
「神の御国(天国)は、
どこにあるんでしょう?」
という弟子たちの問いに
「あなた方の間に在る」
と応えている。

つまり、
「I am」という
「存在」そのものが
「神」なのだから、
まさしく、天国とは
「今ここに在る」ということになる。

しかし、現実には、
コロナ感染やら、紛争やら、
環境破壊やら…と、
人間を巡る問題は山積している。

これをどう考えるのか…。

あなたも私も、
彼も彼女も…、
トランプも習近平も…、
「神」だというのである(笑)。

「何も無い」世界、宇宙では
「何も始まらないし、何も終わらない」。

アインシュタインは
「私が居ようが居まいが、
月はそこに在る」
と明言したが、
それは、
「そうであるはずだ…。
そうでなければ馬鹿げている」
という、物理学者らしからぬ
信念であり思い込みであった。

実際は、
世界中のラボでの実験から、
量子力学の正しさが証明され、
電子はあらゆる処に遍在しており、
観察者が「存在」して「意識」して
観察を行った時に収斂して
現象化/存在化するのである。

そこから、
「存在」と「自意識」がなければ、
観察され得る宇宙や世界、現象界は
常に顕現しているものではない、
ということになる。

宗教、哲学、量子力学の定説が
今、一つの統一論に
帰結しようとしている。

つまり、
まず「I am」ありき、
その後の「宇宙(宇=時間/宙=空間)」
なのである。

『般若心経』の
「色即是空 空即是色」
も正しかった。

全てが「空」(自意識/存在)だからこそ、
「色」(宇宙/物質/現象)が生じるのである。

アインシュタインの公式
「E=mc²」
も、目には見えないが
確かに「存在」するエネルギーと
目に見えて質量を持つ物質は
同じ事物の両側面と示している。

そこで、
ダイバーシティ
(Diversity/多様性・相違性)が
問題になってくる…。

じゃ、何故、
「存在=意識=神=I am」は
世界の二極性、あるいは、
複雑性を生じせしめたのか…。

思考実験として、
単純化して、
「真善美聖」に対する
「偽悪醜邪」。

「生」に対する「死」…。

ここにおいて、
「人間中心の価値原理」に気が付く。

「真善美聖」を「いいもの」とし、
「偽悪醜邪」を「わるいもの」と判断するのは、
価値観である。

「生」は「よくて」
「死」は「わるい」
…も同様である。

じゃ、「右と左」「上と下」
「+と-」「N極とS極」
「酸性とアルカリ性」などに、
「よい/わるい」があるか?

あるワケがない。
これは「極性/方向性」の違いに過ぎず、
価値観を適用できない。

「ただ、そう在る」という
相対的な異質性・多様性
という「性質」なのである。

変な言葉を思いついたが、
【全てが在り、全てが相対的である】
というのが「多様性」「異質性」が
ある理由ではなかろうか。

しかも、それは
「異質/多様」で在りながら、
全部つながっている。

「始まり」も「終わり」もなく、
永久不変・不滅・定常状態で、
「存在=意識=神=I am」
があり、それが、
宇宙(時空・現象)を生じせしめた。

何故なら、
「存在=意識=神=I am」が
観察し介入せねば、
「何も無い」「何も起こらない」
と同義である。

なので、主体的・主観的な
「存在=意識=神=I am」が
客体的・客観的な宇宙・現象を
必要とするのは理である。

極論すれば、
「存在=意識=神=I am」が
宇宙・現象を必要としたのである。

しかも、
「始まりも終わりもない」
「定常性」の「存在=意識=神=I am」は、
時空・現象を固定・静止したものでなく
「変化・生々流転」する
「相対性」を持つものとして
創りあげたのだ。

「存在=意識=神=I am」は
宗教的な意味でなく
「たましい・こころ・精神」
というものを含めてもいいのだろう。

敷衍・換言すれば、
「始まりも終わりもない」
この「私という自意識」が、
この宇宙と現実を創ったのである。

しかも、
この現象界、リアリティ(現実)は、
根源の「存在=意識=神=I am」の
「場/界」から、あるいは、
それを超越した「純粋実存」から
投影されたホログラムであり、
ダウンロードされた
プログラムである…と、
考える科学者・思想家もいる。

緻密に見え、
触れれば実体を感じる
自分のカラダも含めて、
全ての物質界は素粒子レベルでは、
原子核と電子の距離を考えると
99.9%は「隙間」で
スカスカだそうな。

たしか、
全人類の原子を
「隙間なく」凝縮させると
ビー玉1ケ分くらいにしかならない
とも聞いた。




























麺めん

2020-03-07 08:09:00 | 食物・飲物
きのうはY中の
今年度、最後の勤務日で、
しかも、生徒がコロナ休校だったので、
なんだか気が軽かった。

それでも、
次年度入学の新入生の
小学校からの申し送りを受けて、
心理・病理アナリーゼを
専門書を紐解いて午前中かけて行い、
午後からは、先生方の研修会の
レクチュアをした。

久しぶりに、
サイコセラピー研究会の
レポーターになったような気がして、
ホワイトボードを用いて
発達障害支援の一般論から
最先端の専門的な知見まで
お話させて頂いた。

教頭、校長両先生からは
たいへん役に立ったと
お礼を頂き恐縮した。




来週は、
午前中に卒業式に参列するが、
午後からは空いてしまうので、
そのまんま山木屋から浪江に向かって、
太平洋を眺めてから
何処かで夕食をとって、
相馬周りで
高速で帰ってこようかと考えた。

【独立個人】
【おひとりさま】
を楽しめるのは、
孤独を楽しめる質(たち)の
HSPの長所なのかもれしない、
と最近、気が付いた。

死ぬ時は、
どーせ独りだもんねぇ・・・。

今から、それに、
慣れとかなっきゃ・・・(笑)。





生徒が休校なので、
給食もなくなり、
久しぶりに地元の蕎麦屋に
食べに出かけた。

「新蕎麦入りました」
という貼り紙に釣られてか、
地元客が開店前から
列をなしていた。

ハテ (・_・?)

新蕎麦といったら、
秋の新蕎麦が出回るのが
10月下旬から11月上旬頃なのに…と、
怪訝にも思った。

新蕎麦の粉を
冷凍にでもしておいたのだろうか。
だとしたら、そんなに、
ありがたみもないなぁ・・・。

(ーωー).oO ウーン

ま、とりあえず、
四の五の言わず
喰ってみた。

やっぱし、
香りがさほどでもない。

蕎麦湯もサッパリである(笑)。

何処か物足りなかったので、
名物の「おはぎ」を
デザートに平らげた。

もろ、炭水化物オンリーの
昼食になっちまった・・・(笑)。

でぇジョーブかーッ!?
糖尿“予備軍”ジジイ(笑)。

ε=ε=ε=ヾ(*。>◇<)ノ

♪ トーニョーだよ
    おっかさん ♩



金曜の晩は、
カミさんがテニス・スクールなので、
外食か自炊となる。

ゆんべは、
この三月に閉店になる
51年目の老舗
「お婆ちゃん食堂」に寄って、
初めてのチャーシュー麺の
初めての大盛り(半玉50円増し)を
食してきた。

これが、最後の
喰い納めになりそうである。

大盛りにしたのが、
いけなかった。

ラーメンでは、
完璧なウェルバランスだったのが、
麺の1.5玉分の湯切りが
婆ちゃん出来なかったのだろう。

その湯分がスープを薄めて
お湯っぽくしていた。

昭和味の手作りチャーシューは
わるくなかったが、
ラーメンには載っている
メンマ、ナルトがない分、
箸休めが少なくって、
お湯っぽいラーメンと
同じ味のチャーシューに
途中からいささか食べ飽きがした。

“最後の晩餐”は
やっぱり定番の
“婆ちゃんラーメン”に
すべきだった・・・と、
ちょっぴり後悔した。

昼・夜と
“麺喰い”の一日だったが、
どちらもイケる麺‥
イケメン‥じゃなかった(笑)。