9年前の今日、
2時46分に
どえらい目に遭うとも知らず、
ノコノコと近所の文具屋に
買い物に行っていた。
突然の大揺れに、
慌てて店の外に出た。
店内の品物が
音を立てて崩れている。
ただ事じゃない…。
同じく、飛び出してきた客たちも
不安と動揺に顔が青ざめている。
すると、ガクンと
腰が折れそうになるほどの
激しい横揺れと
ゴゴーッという地鳴り。
目の前の電柱が
メトロノームのように
アレグロのテンポで
左右に振れている。
長い…大きい…
いつまでも揺れが収まらない。
恐怖心が湧いて、
思わず、立ち尽くしたまま、
合掌してご祈念した。
「どうぞ、揺れを収めてくださいーッ!!!」
…(((T人T ))) ブルブル
そしたら、また、
一段と大っきな揺れが…
ヒェ~ッ !! ε=ε=ε=ヾ(*。>◇<)ノ マタキタ~ッ!!
目の前の4号線では、
クルマがぜんぶストップして、
中から人が降りてきて、
女性は抱き合って、
「キヤー、キャー」
悲鳴を上げている。
(世界がオワルのか…)
と、刹那に思った。

3.11当日だけで、
震度5を含む余震が
200回以上あった。
まだ、原発は爆発していない。
内陸部なので、津波の心配もない。
それでも、
一晩中、大揺れ、中揺れのなかで
まんじりともせず夜明かしした。
小雪が降る寒い日だったが、
玄関扉が歪んで開かなくなるのを懸念し、
一晩中、半開きのままにしておいた。
だから、家ん中は
屋外と同じ寒さだった。
それでも、未だ、生きていた。

そして、
原発が大爆発した。
それも、3機も…。
放射能が空中に飛散し、
屋外は25μ㏜/hとなった。
レントゲン撮影1回が
50μ㏜(マイクロシーベルト)なので、
2時間で1回分の被爆量だった。
平穏な日常が、
かつてない放射能汚染に
見舞われた。
大地は揺れ続けている。
一日、何百回も…。
水は出ない。
幸いにも、停電だけは
地域的に免れた。
夜の灯かりが
確保されていただけでも、
どれだけ心強かったことだろう。
そして、パソコンが使えたから、
情報収集ができ、
被害状況やパニックの現状を
ブログに発信できた。
これも精神衛生にはよかった。
すこし気を取り直すと、
浜通りは「被害の当事者」
会津は「被害の外」、
となると、中通りの人間が、
中程度の被害を受けながらも
避難者を受け入れながら、
尚且つ、この惨状を
世界に向けて発信せねば、
という使命感にかられた。
と言っても、
アウトプット媒体は
日常の「ブログ」に限られた。
でも、キーワードで検索されれば、
ヒットするし、翻訳ソフトを通せば、
当事者のローカルな現状は
世界中どこからでも分かるはずだ。
https://gold.ap.teacup.com/fumiakinatu2009/645.html
その後、
『3.11 を生きる』というサイトで、
現在に至るまで連載を切らしていない。
https://ncode.syosetu.com/n6240s/
「超巨大地震・超巨大津波・超規模原発事故という
人類未曾有の超規模複合災害を、フクシマの人間は、
どう生きたらよいのか…」
というのが、メイン・コピーである。
今朝もこれから、
『9年目の朝』というタイトルで
今の心境を綴ろうと思う。
たまたま、今日現在の
アクセス数をのぞいてみたら、
「22,395人」とあり、
3.11の死者2.2万人と同数で
ゾッと鳥肌が立った。
やはり、
言える者、語れる者が、
何をか言わねばならない、
と改めて思わされた。

2014年から6年間、
持ちだしのチャリティーで
『復興支援リサイタル』を
続けてきた。
還暦を過ぎてからの
「楽団ひとり」の活動は
正直シンドかったが、
でも、6年間はやりきる、
と日切りして腹を括った。
何から何までの
セルフ・マネジメントと
連日練習と気遣いで
ずいぶん命を削ったので
けっこう寿命が縮んだかもしれない(笑)。
3.11当時は、
市内の全避難所(18ケ所)を
ボランティアでASD/PTSDの
ケアに巡回した。
自分に出来ることは、
祈ることとカラダを使った
奉仕だけである。
「あなた」と呼べる
二人称関係の人たちが、
津波に呑まれ、肉親を失い、
自殺もした。
今も、かつての特別避難地区、
現・復興特区でもある
山間部の僻地のY中に
出向いている。
新年度からも
全校生3名である。
それでも、
全力で被災地区の支援をする。
みつとめの奉仕淡々と
出来るだけ淡々と
われにつづけ得しめ給へ
遅遅たりといへど
後退することなく
わがゆく道を歩ましめ給へ
春風に似たるこころを持ちたしと
吹く春風に
吹かれつつ思ふ
碧水先生御歌
2時46分に
どえらい目に遭うとも知らず、
ノコノコと近所の文具屋に
買い物に行っていた。
突然の大揺れに、
慌てて店の外に出た。
店内の品物が
音を立てて崩れている。
ただ事じゃない…。
同じく、飛び出してきた客たちも
不安と動揺に顔が青ざめている。
すると、ガクンと
腰が折れそうになるほどの
激しい横揺れと
ゴゴーッという地鳴り。
目の前の電柱が
メトロノームのように
アレグロのテンポで
左右に振れている。
長い…大きい…
いつまでも揺れが収まらない。
恐怖心が湧いて、
思わず、立ち尽くしたまま、
合掌してご祈念した。
「どうぞ、揺れを収めてくださいーッ!!!」
…(((T人T ))) ブルブル
そしたら、また、
一段と大っきな揺れが…
ヒェ~ッ !! ε=ε=ε=ヾ(*。>◇<)ノ マタキタ~ッ!!
目の前の4号線では、
クルマがぜんぶストップして、
中から人が降りてきて、
女性は抱き合って、
「キヤー、キャー」
悲鳴を上げている。
(世界がオワルのか…)
と、刹那に思った。

3.11当日だけで、
震度5を含む余震が
200回以上あった。
まだ、原発は爆発していない。
内陸部なので、津波の心配もない。
それでも、
一晩中、大揺れ、中揺れのなかで
まんじりともせず夜明かしした。
小雪が降る寒い日だったが、
玄関扉が歪んで開かなくなるのを懸念し、
一晩中、半開きのままにしておいた。
だから、家ん中は
屋外と同じ寒さだった。
それでも、未だ、生きていた。

そして、
原発が大爆発した。
それも、3機も…。
放射能が空中に飛散し、
屋外は25μ㏜/hとなった。
レントゲン撮影1回が
50μ㏜(マイクロシーベルト)なので、
2時間で1回分の被爆量だった。
平穏な日常が、
かつてない放射能汚染に
見舞われた。
大地は揺れ続けている。
一日、何百回も…。
水は出ない。
幸いにも、停電だけは
地域的に免れた。
夜の灯かりが
確保されていただけでも、
どれだけ心強かったことだろう。
そして、パソコンが使えたから、
情報収集ができ、
被害状況やパニックの現状を
ブログに発信できた。
これも精神衛生にはよかった。
すこし気を取り直すと、
浜通りは「被害の当事者」
会津は「被害の外」、
となると、中通りの人間が、
中程度の被害を受けながらも
避難者を受け入れながら、
尚且つ、この惨状を
世界に向けて発信せねば、
という使命感にかられた。
と言っても、
アウトプット媒体は
日常の「ブログ」に限られた。
でも、キーワードで検索されれば、
ヒットするし、翻訳ソフトを通せば、
当事者のローカルな現状は
世界中どこからでも分かるはずだ。
https://gold.ap.teacup.com/fumiakinatu2009/645.html
その後、
『3.11 を生きる』というサイトで、
現在に至るまで連載を切らしていない。
https://ncode.syosetu.com/n6240s/
「超巨大地震・超巨大津波・超規模原発事故という
人類未曾有の超規模複合災害を、フクシマの人間は、
どう生きたらよいのか…」
というのが、メイン・コピーである。
今朝もこれから、
『9年目の朝』というタイトルで
今の心境を綴ろうと思う。
たまたま、今日現在の
アクセス数をのぞいてみたら、
「22,395人」とあり、
3.11の死者2.2万人と同数で
ゾッと鳥肌が立った。
やはり、
言える者、語れる者が、
何をか言わねばならない、
と改めて思わされた。

2014年から6年間、
持ちだしのチャリティーで
『復興支援リサイタル』を
続けてきた。
還暦を過ぎてからの
「楽団ひとり」の活動は
正直シンドかったが、
でも、6年間はやりきる、
と日切りして腹を括った。
何から何までの
セルフ・マネジメントと
連日練習と気遣いで
ずいぶん命を削ったので
けっこう寿命が縮んだかもしれない(笑)。
3.11当時は、
市内の全避難所(18ケ所)を
ボランティアでASD/PTSDの
ケアに巡回した。
自分に出来ることは、
祈ることとカラダを使った
奉仕だけである。
「あなた」と呼べる
二人称関係の人たちが、
津波に呑まれ、肉親を失い、
自殺もした。
今も、かつての特別避難地区、
現・復興特区でもある
山間部の僻地のY中に
出向いている。
新年度からも
全校生3名である。
それでも、
全力で被災地区の支援をする。
みつとめの奉仕淡々と
出来るだけ淡々と
われにつづけ得しめ給へ
遅遅たりといへど
後退することなく
わがゆく道を歩ましめ給へ
春風に似たるこころを持ちたしと
吹く春風に
吹かれつつ思ふ
碧水先生御歌