『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

「実在」の証明は不可能

2024-09-11 05:45:12 | 魂理学

 

きのうは、
朝の寝起きは良かったのだが、
ベントを作っていたら
按排がよくなくなり
出勤の判断を迷ったが、
出向いたら悪化しそうだったので、
欠勤の連絡を入れた。

有給も十日以上あるので
消化できるが、
振替え出勤にしてもらった。

来週は入院するので
ついでにその欠勤についても
振替してもらった。

予約生徒が少ない学校なので
二週連続で欠勤しても
さほど、迷惑はかからないだろう
という気安さはある。

歳ぃとってからの風邪は
長引くし、症候転移がよくあり、
今回も、頭痛から始まって、
怠さ、息苦しさ、咳、クシャミ、
風邪声、痰、自律神経失調症・・・と
ころころ症状が変わっている。

時折、ここから
おなかの調子が悪くなる
胃腸症状にまでなる事もある。

来週の火曜日に入院し、
また、大腸洗浄剤を2ℓも呑まなきゃ
ならないので、胃腸炎にだけは
ならないでいてほしい。


**

Amazonから
『宗像教授』と『七つ屋』の
新刊が届き、
自宅療養の気慰みになってくれた。



*

スーパーにいくたび、
『かっぱえびせん』の
小袋パックを買ってくる。

オヤツ代わりに
いい気になってやってたら、
いつの間にやら1㎏も
体重が増えていて、
アセアセである💦

主治医からは
検診のたびに
「痩せろー。やせろー」
と厳命されているので、
なんだか背信行為をしてるみたいで
合わせる顔がないなー・・・。

今日も、9時から
予約診察がある。



***

2014年から19年の
6年間の間に、
50代の挑戦として
被災者を労う為に
『復興支援リサイタル』を
自分に出来る事として、
ヴォランティア替わりに
やらせて頂いた。

プログラムでは、
毎年、20曲も演奏したので、
のべ120曲ほどを
アナリーゼや編曲・猛練習に
時間を費やした日々だった。

その後、
コロナ・パンデミックが起こり、
東京オリンピックがあり、
今日に至っているが、
この間に、一昨年は、
毎日1曲をフェイスブックにアップする
というハードな試練を自分に課した
『リュート・マラソン』という
自分イベントをやり遂げた。

最初の頃は、
4本あるルネッサンスやバロックの
リュートを多用したので、
その冠名にした。

途中からは、製作した
ルネッサンスギターやヴィウエラという
古楽器を用いたり、
普通のギターやバスギター、
レキントギター、フラメンコギター…と、
ありとあらゆる手持ちの学期を総動員した。

意に違わず、
途中からは、レパートリーが底を尽き、
過去の教則本から練習曲をやったり、
歌本まで引っ張り出して、
童謡・民謡・歌謡曲などの
編曲にも明け暮れた。

それでも、その365日365曲の
自己鍛錬のお陰で、
編曲の要諦が掴めてきて、
ピアニズムのような
ギターリズムを体得できた気がした。

今にして思えば、
きっと「終活」の一貫で、
「ギター人生」の終止符が訪れる前の
最後の本気「挑戦」だったのかもしれない。

でも、その無謀な挑戦により、
年々、強張る両指のへバーデン結節や
ブシャール結節という変形性関節症に
抗うかのような運動が出来ていた。

そして、70歳「古希」のリサイタルを
ギターライフ最後の〆にしようと
考えていたが…
【ふと思うは神心 あれこれ思うは人心】
の箴言じゃないが…
ふと、70までの「カウントダウン」の
リサイタルにしようと、
またまた無謀な野心が湧き上がった。

…となれば、
来年67からの70までの
4年間となる…。

これは、これで、
容易なこっちゃない…(笑)。

*

ふと、沸いたのは
「神心」とはいうものの…
やるのは前期高齢者の
カラダ・ガタガタの
ジジイである…(笑)。

(おっさん。
 ほんまに、やれんのかい…💦
という、
心配性の関西キャラの
内的人格が揶揄する…(笑)。

(やらいでかッ!!)
と、息巻く、
江戸っ子キャラもいる…(笑)。

(ま、ま…。
 ぼちぼち参ろうか…で、
 行きましょうや…)
という、
ご隠居キャラもいる。

かくばかりの、
多重人格性というのは
誰しもが持っているのかもしれない。

現に、夢には
多くのキャラが登場する。

それらは、夢見手の
主観がこしらえた配役であり、
疑似客体である。

この構造をフラクタル的に
敷衍して考えたのが、
哲学者カストラップの
覚醒時の現実世界での
「純粋自意識
(ピュア・イプセィティ)」による
多重アバター説である。

つまり、
自分の周囲の人物は、
すべて、夢の登場人物と同じく、
自分の意識が創造したものである、
というのである。

これは、観測するまでは、
波動状態で確率的存在である量子が、
観測した瞬間に粒子に収束する、
という量子力学の説に
通ずるものがある。

そもそもが、
【われ思う 故に 我在り】
の通りに、
「今ここで」意識している
主体の実在は疑いようがなく、
それは証明も要らないが、
さて、自意識以外の客体となると
その実在の証明は難しい。

見てあるから、
触って感じるから…
というのは、いずれも、
脳内の電気的現象に置換される
感覚である。

夢の中でも、
見えるし、聞こえるし、
触覚もある。

なので、知覚をもって
実在の証明にはならない。

では、どうしたらいいか。

困った時のAI頼みで…(笑)

ChatGPTでは…

1. 帰納的推論による証明
方法:
自分の意識が外部からの刺激によって一貫して反応することを観察します。
例えば、火を触れば熱いと感じ、リンゴを見て手に取ることができるなど、外界の対象に対して常に予測通りの反応が得られる場合、それらが実在することを仮定するのが合理的であるとする。

限界:
しかし、これは完全な証明ではなく、高い確率で実在すると信じるための方法です。外部の現実が幻覚や錯覚でないことを100%証明するものではありません。

2. 他者の心の存在証明(心の理論)
方法:
他者が自分と同じように意識を持ち、自発的に行動し、独自の経験を持つことを前提とします。
例えば、他人との対話や共通の経験を通じて、その人が自分と同様に意識を持っていることを推測します。
多くの他者が外界の存在を認識し共有しているため、その実在性が強化されます。

限界:
他者の意識自体が幻覚や自分の意識の投影である可能性を完全に排除できない点で、絶対的な証明とはなりません。

3. 実証主義と科学的検証
方法:
科学では観察、実験、再現性に基づいて現象を確認し、理論を構築します。
外部の物体が観察され、異なる条件下でも一貫して同じ結果をもたらす場合、その物体が実在するという仮定が強く支持されます。

限界:
科学的手法もまた、客観的な実在を仮定のもとに進められているため、根本的な懐疑に対しては論理的な最終証明とはなり得ません。

4. 現象学的アプローチ
方法:
フッサールやメルロー=ポンティなど現象学の哲学者は、外部世界は私たちの意識の中に現れる形で「与えられる」と考えます。現象学的な方法では、意識の中に現れるすべての体験を信頼し、その現象が意味を持つこと自体がその存在を保証するとします。

限界:
この方法は、実在を「経験されること」と結びつけるため、経験が実在するかどうかを超えた証明は提供しません。

5. 神学的証明(デカルトの神の存在証明)
方法:
デカルトによれば、全知全能で善なる神が存在し、その神が人間を欺くことはないとすれば、外部世界もまた実在すると考えました。神の存在を信じることで、世界の実在も保証されるという論理です。

限界:
この方法は神の存在を証明することに依存しており、その証明自体が議論の対象であるため、普遍的な証明にはなりません。

【結論】
これらの方法論は、客体の実在性を様々な角度から論じるためのアプローチですが、どれも絶対的な証明には至りません。
最終的には、実在を受け入れる「信念の選択」や「合理的な仮定」として扱うのが現実的です。
哲学におけるこの問題は、外部世界の存在についての「絶対的な証明」が困難であることを示し、人間の知識の限界を浮き彫りにしています。

***

「客体の実在性」を
証明できないことは、
「言葉の限界性」にも
相通ずるものがあるかもしれない。

例えば、
客観的な「赤」なぞというものは、
存在しようがなく、
これは、物理学的には
波長の特定領域が
スペクトラム(連続性)として
脳の視覚中枢で、電気的に認知され、
「記号」化された現象に過ぎない。

極論すれば、
自分の肉体もまた、
分子・原子・素粒子から成り、
常に粒子で存在するのではなく、
観察されない時には
波動状態で確率的に存在しているのである。

自意識は、
物理学的には還元しようがないが、
強いて言えば、脳内の
目に見える神経細胞内で
ソリッドステートドライブ
(SSD)のような記憶方式で、
電気的なオン/オフの状態を
変化させることで「0」「1」の
二進法になっているかもしれない。

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