老いわれの
生身の今のこのからだ
生ましたる母
をろがみまつる
きのうは、朝8時に、
カミさんと兄共々、家を出発し
叔母ちゃんを拾って
斎場に赴いた。
卯月晴れの空は
抜けるように蒼く、
残雪を抱く吾妻の峰々は
陽光を受けて純白に輝いていた。
眼下の阿武隈の流れは
たおやかにして、
清らかであった。
斎場までの道々、
さくらは咲き、
鳥は歌い・・・と、
ほんとうに穏やかで
麗らかな春模様であった。
東京から
甥っ子の洋ちゃんが
早々と駐車場に到着していた。
やがて、母の柩も
黒塗りの霊柩車で
恭しく到着し、
周囲の合掌のお迎えで
斎場に運ばれた。
係員の先導で
「お別れ室」なる
炉前に誘導された。
父の柩
母と送りしこの廊を
またも行くなり
母の柩と
炉の前には
祭壇があり、
カミさんと叔母ちゃんが
選んできた籠花が二つ供えられ、
自分は、持参した
金光教の御神紋の入った木製盾と
ご神米を設置した。
家族葬なので、
「祝詞(のりと)」もなしで
静かに手を合わせて
炉入りのお見送りをした。
すれ違いに、
自宅のPCには
Tちゃん先生からの
「火葬の儀」唱詞が
届いていたが、帰宅後だったので
残念ながら、心中で御神号と
黙とうのみを捧げた。
「火葬の儀」唱詞
あはれ「佐々木ヒテ大刀自」之霊神はや
なごりは永久(とわ)に尽きねども。
今し神みはかりにゆだぬれば。
み心やすらに神の御許に立ち帰りませ。
み心やすらに、神の御許に、立ち帰りませぇ。
金光教徒としての
諡(おくりな)
「佐々木ヒテ大刀自」之霊神
をも賜ったので、これを墨書して
父の眠る自宅のお社に合祀しようと
思っている。
++
休憩室では、
久しぶりの洋ちゃんを囲み
歓談に花を咲かせ、
しばしば大笑して
家内に窘められるシーンもあった。
彼曰く
「佐々木家は変わってないなぁ・・・」
と嬉しそうにする彼も
佐々木姓である。
父である兄が
「佐々木は、清和天皇の子孫の
清和源氏が先祖なんだぞ・・・」
と、誇らしげに言うと
「へぇ・・・」
と感心していた。
葬儀社の担当おばちゃん相手にも
「こんがりウェルダンでお願いします」
だの
「霊安室からストレッチャーで搬送する時、
ストレッチャーの脚が固定されてなくて、
転がり落ちそうになって
遺体が「イタイ!」って言ったんですわ…」
なぞと
ブラックジョークで笑わせていたが、
うちの家族たちもノリがいいので
笑いの場にしてくれていた。
+
一時半も馬鹿ッ話に
花を咲かせていたら、
呼び出しフォンが鳴って、
いよいよ収骨となった。
カミさんは、
「クルマに居る・・・」
と言うので
「駄目なの?・・・」
と訊くと
黙ったまま頷いた・・・。
三年前には
叔父ちゃんの収骨に立ち会った時、
やっぱり、叔母ちゃんが
「いやだぁ・・・」
と、腰が引けていたが、
親族に背中を押されて
「旦那様なんだから・・・」
と促されて、頑張ったみたいだった。
今回は、どうかな・・・と、
横目で視ていたら、
世話になった義姉なので
果敢に端を受け取って
私と手渡しの儀をしてくれた。
対面は、
兄と陽ちゃんの
四人での収骨だった。
47年前の祖父に始まり、
恩人・親友・祖母・父・叔父・・・と、
数えるほどしかないが、
いずれも厳粛な趣きであった。
+
斎場を後にすると、
一路、墓所のある信夫山に向かった。
今まさに、花見祭りの最中で、
護国神社の参道には
色とりどりの露店が出店しての
祝祭空間が展開していた。
どの顔々も
さくら同様
満開の笑みを浮かべ
観桜に酔っていた。
そんな中、
まずは、山の斜面を墓所とする
広大な敷地内にある
管理人室を探索せねばならなかった。
埋葬許可証を提出する為である。
幸い、斎場で
その電話番号を聞いてきたので、
兄が管理人とスマホでやり取りしながら、
洋ちゃんと三人で墓所内を
探し回った。
そしたら、指示通りの道順で
今にも壊れそうなあばら家を見つけ、
管理人のおばちゃんに無事、
受理してもらえた。
それから、我が家の墓地に向かい、
納骨の儀を執り行った。
・・・といっても、
いつもの墓参りと同じ手順だが、
今回は、墓の中に納骨するという
自分には初めての儀式であった。
いっちゃん若い43歳で
ミドル・サッカーチームに
所属する洋ちゃんが、
重い礎石を動かしてくれ、
ぽっかり空いた空間に
骨壺ごと収めるのかと思いきや、
そんな隙間はなく、
遺骨のみを注ぐのだというから
原始的で驚いた。
のぞき見えたのは
平成9年に亡くなった
父の白々とした遺骨だった。
そこに母のものを
被せるのである。
ようやく、遺骨どうしの
28年ぶりのご対面である。
その儀は
喪主として兄を指名し
「喪主代行として
長男としてやって・・・」
と、お願いしたら、
躊躇なく、骨壺から
バラバラバラ・・・と、
景気よく注いだ・・・(笑)。
86歳になる
光っちゃん叔母ちゃんが
洋ちゃんに向かって、
「下は、土になってるから、
こうやって、土に還るんだよ・・・」
と、年長者らしく
埋葬の儀を説明していた。
彼は、図らずも六人の孫たちの
代表になってしまったので、
六人分の線香を分けて
冥福の祈りを捧げていた。
たった五人の家族葬だったが、
寂しさなぞ微塵もなく、
これ以上に、心豊かな
納得のゆく葬送の儀は
なかったように思う。
祝詞もギター演奏もないのに・・・
である。
+
兄と光っちゃんが
「ご飯食べに行こう!!」
と意気投合し、
正午数分前になっていた事に
気が付いた。
山の麓にある、
正月にはリク坊一家と
スキーの帰りに寄った
『竹林亭』に向かって
一行は下山した。
テーブルにつくや否や、
兄が、俺が出すから
何でも好きなもん頼め・・・
と、太っ腹な家長ぶりを見せた。
72歳になった彼からは、
葬儀費用と入院費用分を
手渡された。
次男ながら
本家の墓守りをし、
老母を看取った事への謝意が
そうさせたのだろう。
前日には、ミッちゃんからも
「感謝」と記された
白封筒を手渡され、
自分とカミさんに十万ずつ頂いた。
全部、新券だったので、
自分は、そっくりそのまま
Tちゃん先生のお教会に
母親の人生へのお礼として
献納させて頂いた。
(親父の時は、
30万だったなぁ・・・)
と、思い出した。
ま、昭和生まれの
夫婦では、違ってもいっか・・・
と、呑気に考えた。
図らずも、
五人の食事会もまた
愉しく大盛り上がりで、
なによりの「直会(なおらい)」の
供養になった。
兄と洋ちゃんは、
今が盛りの名所・花見山に寄ってから
帰京するとの事で、
店の外で、互いの半日を
労い合って別れた。
自分は疲れたので、
送られて帰宅したが、
元気なマダムふたりは
意気揚々と土湯温泉に
出向いて行った(笑)。
その後、二時間も爆睡し・・・
夜からは、追悼プログラムの練習を
入念に行った。
+
今日は、午後から
デュオの最終練習があるが、
午前中には役所まわりをして、
戸籍の除票やら年金停止やら
諸々の手続きをしてきようと思っている。
カミさん共々
七日の忌引きとなったので、
「こういう事後手続きも
含んでるんだねぃ・・・」
と、納得し合っていた。
今のいのちあらしめ給ふ
産みのみ親逝きまして
今日まだ二日目
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