『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

自意識の謎

2022-04-10 05:51:00 | 勉強
TVの予報で
「桜が満開だ」
と言うので、
三密を避けて、
土曜の朝8時に
城山に出向いてみた。

そしたら、
なーんと、まだ三部咲きで、
あらま・・・
であった。





それでも、
朝一の「ひとり観桜会」は
人出のない静寂のなかで、
じっくりと花と対峙できた。








快晴の澄んだ空気で
吾妻山の雪兎も
クッキリと望むことができた。

ここのところ、
山頂では、まだ
雪が降るのか・・・
モモリン(雪兎)も
消えたり現れたりしている。









城山にも
フキノト・エリアがあるが、
生えながらにして
茶褐色に変質してるものが多く、
採るのをやめてきた。

この時季、
フキノト・ハンターの親指の先は、
摘み取るときの灰汁成分で
茶褐色に染まり、
石鹸水でブラシ洗いしても
落ちないのである。

でも、
それが
フキノト・ハンターの
証しでもある(笑)。

┌( ̄^ ̄)┐エヘン!








うっちゃ、けぇったら、
(家へ帰ったら・・・フグスマ弁)、
佐川便が来て、
ヤフオクで廉価落札した
新品の夏タイヤを
若いおネーチャンが
両手に2本ずつ抱えて
「ウンショ、うんしょ」
運んできてくれた。

「女の子なのに、
力仕事たいへんだねぇ」
と労うと、
愛想のいい子で
「わーっ!
こんなんで、褒められたぁ!」
と喜んでくれた(笑)。

「ご苦労様ね」
と言うと
ニコニコしながら
「ありがとうございました!」
と生き生きして
帰って行った。

階段下に
お茶やアクエリアスの
ペットボトルが
箱であったので、
1本あげればよかったなぁ・・・と、
感じのいい彼女が
帰ったあとで
ちょっと後悔した。









"ぼっちフレンチ"は
『ロティ・ド・ポール』
(ロースト・ポーク)。

小ぶりのエリンギも
丸々一本ロティスールして
添えた。

ソースは
冷凍保存してある
グランマニエ風味
(オレンジ・リキュール)
のビガラードソース。








最近の
DID(解離性同一性障害/
Dissociative Identity Disorder)
の研究状況について探っていたら、
fMRIによって脳内の
血流動態反応を視覚化して
様々な新知見が得られてることを知った。

なかでも、
正常な役者による
別人格の演技との
対照実験では、
多重人格患者が
恣意的に行っている
演技ではない・・・
ということが
脳内血流像の違いによって
明らかになったのは
画期的な結果である。

自分にも、
30年ほどの
臨床経験で1例だけ、
DIDケースの心理療法を
したことがある。

10年以前のケースだが、
あの頃、たしかに、
頭のどこかでは
(これは、演技じゃないか・・・)
と絶えず疑っていた自分がいた。

さらに驚くべきことは、
盲目人格が出現したとき、
その患者には
視覚異常がないにも関わらず、
脳内の視覚野の機能がオンにならず、
じっさいに視えなくなっている、
ということが判明した。






また、患者の主人格である
A人格が出ている時でも、
B人格、C人格は
「休眠」状態にあるのではなく、
「活動」状態にある・・・
というのも驚きだった。

さらに、
DID患者の
夢を分析した研究では、
一つの夢を三人の人格が
それぞれの「主格」の視点で
見ている、という。

それゆえ、
芥川 龍之介の有名な
『藪の中』のように、
一つの現象に対して
多視点の主観的な
状況解釈が生じる
ということである。

***

この多重人格の最新知見を
「自意識」の存在に敷衍させた
哲学者がいて、それは、
古今東西の宗教哲学で
言われていた
「大いなる一つの意識」(ワンネス)
としての宇宙意識のなかで
分裂した意識が
我われの個々の自意識かもしれない、
という卓見であった。

無論、恣意的とも言える
思考実験の仮説だが、
アナロジー(類推・類比)として、
また、フラクタル的な視点として、
考えられ得る・・・と、
首肯させられた。

また、彼は、
我われの見ている夢には、
多くの人格が現れるが、
元々はそれは自分という
ひとつのマインド(自意識)が
見ているものであり、
多くの登場人物は
交代人格(Alter)に相当するのである、
という説明も加えている。

そして、
ショーペンハウエルの箴言
【全ての生き物を通して
外を眺める世界の「一つの眼」】
をも引用し、
宇宙意識と個々の自意識の
関係性を述べている。

さらに、卓見だったのは、
「I(私)」には二種あって、
「純粋に経験の受け手」として
何のコンテンツも持たない「I」と、
個人史などのコンテンツ
(内容/物語)を持つ「I」があり、
この二つを混同すると
議論が噛み合わなくなると言う。

「純粋な自己意識」は
「Pure Ipseity(イプシーティ)」
と言い、
他にも
「I-ness(自己性)」
「Pure Subjectivity(純粋な主観性)」
「与格(動作の受け手)」
とも同義である。

この内容は、
般若心経の「空」の概念に近い。

カストラップ博士は、
何のコンテンツも物語も持たない、
純粋な「視点」としての自意識が、
「純粋な経験の受け手」であり、
それが受けとる経験の特質が
開示されているのが
現実の現象であるという。

また、
個々の存在は、
一つのマインドが見る夢での
交代人格と同様であるが故に、
それぞれに共通の現実を
体験していて、そこに、
二人称や三人称が生じてくる、
というのである。

この仮説は、
永年、自然科学と
宗教哲学、心理学という
学際的アプローチで
「自意識」について
思考実験を重ねてきた
魂理学者としては
矛盾なく納得できる
仮説であった。

【我われの個々の自意識は
宇宙の眼であり、宇宙は
我われを通して自分を見ている】
という考え方があるが、
最近、そのような気がする傾向が
段々と強くなってきた。

今、コロナ禍、戦争、
自然災害、環境破壊という
壊滅的な状況の
「闇の中」にいる人類が、
人種、宗派、イデオロギーの違いを
超克して、全ては根底で繋がっている、
という根源的な理解を得れたら、
あるいは、ここから、
逆転サヨナラ満塁ホームラン的な(笑)
人類の精神史の大進化が
起こる可能性がある。

先述した、
「英雄の生涯」サイクルや
「死と再生」の通過儀礼、
シンクロニシティ
(意味のある偶然の一致)
といった仮説をもとに
現実世界を俯瞰すると、
今はまさに夜明け前の
もっとも昏い(暗い)
苦節の時季・時間帯として
布置されているのかもしれぬ。

それが、
深層心理学的、
魂理学的な
現実相の分析・解釈である。



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