30代の頃、
通信講座の『童話塾』を
やっていたことがある。
その課題で、
毎月、童話を1篇書いては
プロの立原えりか氏の
添削や評価・助言を受けた。
いつも、
「すごい!」
「哀しいお話でした」
「心に沁みました」
というご感想を頂き、
書くモチベーションを
上げて下さった。
世界の名作児童文学も
ずいぶんと読んだし、
今も蔵書に残して在る。
夏休みのせいか、
なんだか急に「孤島もの」を
読みたくなったので、
ロシアの作家の
『孤島の冒険』
(原題:『ひとり』)
を読んでみた。
最後は、
予定調和どおりに
海軍に発見されて
保護される、
という実話に元づいた
フィクションである。
14歳の少年が
孤島生活を通して、
いかに現代の日常生活が
どうでもいいような事や物に
取り囲まれていたのか…
という事に気付く、
という形而上的な視点が
作品に深みを与えていた。
単なる孤軍奮闘の
冒険物でなく、
きちんと少年の精神世界の
成長が描かれている。
それでも、
喰う、寝る、病む、癒える、
というカラダを養わねば
生きていけないという
人間の宿命も外してはいない。
『孤島』を読了したら、
その本歌である
『ロビンソン・クルーソー』を
読んでみたくなり、
『児童文学全集』から
探し出した。
数十年ぶりに
取り出したら、
ホコリだけでは澄まず、
頁の天地(上下)と小口(側)が
カビていたので、
製本用の裁断機で三辺を切り落として
尚且つ「殺菌アルコール」を
スプレーした。
半分ほど読み進んだら、
『孤島』と似たような箇所が多く、
やはりこれを参照したことは
明らかであった。
自分でも
『孤島もの』を書いてみたい、
と思った事があるが、
ついついマンガや映画の影響か、
美少女とふたりで流される、
というモチーフの方に
惹かれてしまうのは
根が助兵衛だからだろうか(笑)。
( ˶˙ᴗ˙˶ )ゞ ヘヘ…
カミさんが、
「ナッちゃんが好きだった」
という『ピスタチオ』のジャムを
買ってきた。
やっと見つけて
700円もしたという。
ひと舐めしてみたら、
独特の高貴な風味がした。
今、抗生物質服用による
腸内菌交代症の予防に
毎日ヨーグルトをやってるので、
それと一緒に味わっている。
フレンチでは
『コンフィチュール・ド・ピスターシュ』
と言う。
夏休みに入り、
一日一章、
茶室の臨時書斎に入って、
"作家ごっこ"を味わいながら
『名人を超える』
という創作をしている。
そもそも
その動機は、
贔屓にして名誉孫の
ソーちゃんの将来を
見届けられないので、
ならば、自分の手で
こうあってほしいという
ファンタジーを書いてやれ、
ということであった。
ところが、
物語というのは
不思議なもので、
書いてるうちに
サブキャラで登場させた
女弟子のカナリちゃんに
作者が入れ込んでしまい(笑)、
どうやら彼女がヒロインの
物語になってしまった。
(ㅅ˙ ˘ ˙ )゛☆
そして、
事もあろうか、
師匠は夭逝するような
運命になりそうである(笑)。
なんだか、
初めの創作動機とは
本末転倒っぽいが(笑)、
物語の必然というか、
なにか元型的なものが
そっちへ誘導するので
それに素直に従うよりない。
でも、
弟子の眼から語られる
師匠のケタはずれの凄さ
というのは表現できるような
気がしている。
週末の麗人だった
アサちゃんが去ってしまい、
その美貌を元型に
創り出した美少女キャラに
哀愁と郷愁を感じ、
なんだか昭和っぽい
エレジー(哀歌)に物語は
発展しそうな予感がしている。
そうなると、
シェイクスピア的な
悲劇に帰結しそうで、
せっかく創り上げた
魅力的なキャラも
最後には師匠を追う事になり、
『ソータとカナリ』
という
悲劇の天才師弟のような
ドラマツルギーになるのが
作品の必然のようである。
ユングの言葉に
「元型を刺激しないものは、
流行でもて囃されても
百年後には残らない」
という名言がある。
西洋型物語や
ハリウッド型「英雄元型」では、
最後はハッピーエンドになる、
という予定調和があり、
多様性を知る現代人には
もはやその典型的パターンは
食傷気味である。
その点、
日本の典型的物語は、
『夕鶴』や『見るなの座敷』
のように、
最後にヒロインは去り、
"もののあはれ"が
残心として残るという
「美的」解決をみる。
これを
西欧人は
理解できないらしい。
物語は
終わっていないだろう、
と言うのである。
だが、日本人にとっては、
それでオワリなのである。
あはれ、美しさ、
を尊ぶのが
この国の心性なのである。
*
柔道や相撲でも、
勝ってガッツポーズする
外人選手やモンゴル人横綱よりも、
負けても尚、きちんと
相手や畳・土俵に
礼をする姿に
日本人は心揺さぶられるのである。
そこが、
スポーツと武道の
違いなのだろう。
「道」があってこその
「体技」なのである。
「道」を
老子の説いた道教の
「タオ」と読むと、
それは宇宙の根本原理を意味する。
インド哲学では
「ブラフマン」という。
通信講座の『童話塾』を
やっていたことがある。
その課題で、
毎月、童話を1篇書いては
プロの立原えりか氏の
添削や評価・助言を受けた。
いつも、
「すごい!」
「哀しいお話でした」
「心に沁みました」
というご感想を頂き、
書くモチベーションを
上げて下さった。
世界の名作児童文学も
ずいぶんと読んだし、
今も蔵書に残して在る。
夏休みのせいか、
なんだか急に「孤島もの」を
読みたくなったので、
ロシアの作家の
『孤島の冒険』
(原題:『ひとり』)
を読んでみた。
最後は、
予定調和どおりに
海軍に発見されて
保護される、
という実話に元づいた
フィクションである。
14歳の少年が
孤島生活を通して、
いかに現代の日常生活が
どうでもいいような事や物に
取り囲まれていたのか…
という事に気付く、
という形而上的な視点が
作品に深みを与えていた。
単なる孤軍奮闘の
冒険物でなく、
きちんと少年の精神世界の
成長が描かれている。
それでも、
喰う、寝る、病む、癒える、
というカラダを養わねば
生きていけないという
人間の宿命も外してはいない。
『孤島』を読了したら、
その本歌である
『ロビンソン・クルーソー』を
読んでみたくなり、
『児童文学全集』から
探し出した。
数十年ぶりに
取り出したら、
ホコリだけでは澄まず、
頁の天地(上下)と小口(側)が
カビていたので、
製本用の裁断機で三辺を切り落として
尚且つ「殺菌アルコール」を
スプレーした。
半分ほど読み進んだら、
『孤島』と似たような箇所が多く、
やはりこれを参照したことは
明らかであった。
自分でも
『孤島もの』を書いてみたい、
と思った事があるが、
ついついマンガや映画の影響か、
美少女とふたりで流される、
というモチーフの方に
惹かれてしまうのは
根が助兵衛だからだろうか(笑)。
( ˶˙ᴗ˙˶ )ゞ ヘヘ…
カミさんが、
「ナッちゃんが好きだった」
という『ピスタチオ』のジャムを
買ってきた。
やっと見つけて
700円もしたという。
ひと舐めしてみたら、
独特の高貴な風味がした。
今、抗生物質服用による
腸内菌交代症の予防に
毎日ヨーグルトをやってるので、
それと一緒に味わっている。
フレンチでは
『コンフィチュール・ド・ピスターシュ』
と言う。
夏休みに入り、
一日一章、
茶室の臨時書斎に入って、
"作家ごっこ"を味わいながら
『名人を超える』
という創作をしている。
そもそも
その動機は、
贔屓にして名誉孫の
ソーちゃんの将来を
見届けられないので、
ならば、自分の手で
こうあってほしいという
ファンタジーを書いてやれ、
ということであった。
ところが、
物語というのは
不思議なもので、
書いてるうちに
サブキャラで登場させた
女弟子のカナリちゃんに
作者が入れ込んでしまい(笑)、
どうやら彼女がヒロインの
物語になってしまった。
(ㅅ˙ ˘ ˙ )゛☆
そして、
事もあろうか、
師匠は夭逝するような
運命になりそうである(笑)。
なんだか、
初めの創作動機とは
本末転倒っぽいが(笑)、
物語の必然というか、
なにか元型的なものが
そっちへ誘導するので
それに素直に従うよりない。
でも、
弟子の眼から語られる
師匠のケタはずれの凄さ
というのは表現できるような
気がしている。
週末の麗人だった
アサちゃんが去ってしまい、
その美貌を元型に
創り出した美少女キャラに
哀愁と郷愁を感じ、
なんだか昭和っぽい
エレジー(哀歌)に物語は
発展しそうな予感がしている。
そうなると、
シェイクスピア的な
悲劇に帰結しそうで、
せっかく創り上げた
魅力的なキャラも
最後には師匠を追う事になり、
『ソータとカナリ』
という
悲劇の天才師弟のような
ドラマツルギーになるのが
作品の必然のようである。
ユングの言葉に
「元型を刺激しないものは、
流行でもて囃されても
百年後には残らない」
という名言がある。
西洋型物語や
ハリウッド型「英雄元型」では、
最後はハッピーエンドになる、
という予定調和があり、
多様性を知る現代人には
もはやその典型的パターンは
食傷気味である。
その点、
日本の典型的物語は、
『夕鶴』や『見るなの座敷』
のように、
最後にヒロインは去り、
"もののあはれ"が
残心として残るという
「美的」解決をみる。
これを
西欧人は
理解できないらしい。
物語は
終わっていないだろう、
と言うのである。
だが、日本人にとっては、
それでオワリなのである。
あはれ、美しさ、
を尊ぶのが
この国の心性なのである。
*
柔道や相撲でも、
勝ってガッツポーズする
外人選手やモンゴル人横綱よりも、
負けても尚、きちんと
相手や畳・土俵に
礼をする姿に
日本人は心揺さぶられるのである。
そこが、
スポーツと武道の
違いなのだろう。
「道」があってこその
「体技」なのである。
「道」を
老子の説いた道教の
「タオ」と読むと、
それは宇宙の根本原理を意味する。
インド哲学では
「ブラフマン」という。
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