散歩の楽しみに
名も知らぬ雑草の花々が
健気に咲いているのを
見ることがある。
きのうも
小さな黄色い花に
目がとまった。
そしたら、
『マクベス』のなかの
“弱き者、汝の名は女なり”
というフレーズが蘇り、
“か弱きもの、汝の名は花なり”
というヘンテコなフレーズが
思い浮かんだ。
ただ、
哲学者の井筒 俊彦の言を借りれば、
「存在が花している。
存在が自分している」
ということで、
このものとは等価な関係なんだなぁ・・・と、
再認識させられた。
ビッグバンの特異点では、
互いに同じ一つの粒子だった。
それが、分裂、多様化したものの、
素材的には対して違いがない
生物どうしでもある。
「今、ここ」の時点では、
たまたま、自分として自我を認識しているが、
何処ぞの時点では、
向こう側として
「存在」しているかもしれぬ。
また、万物を構成する素粒子が
波であり粒子としても振舞うという性質から、
「ダルマさんが転んだ」遊びみたいに、
観察者が観察した時にだけ
現象として顕現するのであれば、
自分以外のあらゆる実体が
果たして本当に存在している、
と言えるのだろうか・・・とも、
思ってしまう。
我思う、故に、我あり・・・
とは言うものの、
この我という実体を
認識している意識も
そうとうに怪しいもんである。
なにせ、
睡眠下、麻酔下では、
認識されないのだから・・・。
・・・なぞと、
小さき花にインスパイアされて
愚にもつかない
形而上的な存在論を
思索しながら炎天下を歩いていた。
思弁的に、そうかもしれない・・・と、
現時点で帰結した考えは、
《一にして全、全にして一》
ではないか・・・という、
古典的な一元論的な世界観であり、
世界のすべてが神であるという
汎神論の世界観でもある。
これは、
古代ギリシャ時代から
唱えられており、
「ヘン・カイ・パン/hen kai pan」
と言う。
裏庭の春菊の黄色も
盛りを過ぎた。
黒スグリが開花したかと思ったら、
もう結実しだした。
どんな形、味に成長するか
今から楽しみにしている。
Y中の壊れたチェロを復元すべく、
使えそうなブリッジ(駒)用の板を
ダイソーで買ってきた。
プリント・アウトした画像を
直貼りして、
糸鋸でくり抜いてから
キレイに整形してみようと思う。
来週の講演会での
頒布用の冊子を10部ほど
造本しようと印刷している。
私家出版社ごっこ、
造本家ごっこでもある。
毎度ワンコイン販売だが、
内職仕事のつもりで
楽しんでやろうと心がけている。
30年ほど前、
中国への修学旅行引率時に
上海の工芸館で
総漆・螺鈿造りの中棗(なつめ)を
買い求めてきた。
中国に茶道はないので、
明らかに日本の茶人向けに
職人が「中棗」の形状をコピーして
精魂込めて造りあげた
逸品と思われる。
当時で5.000円ほどだったが、
その頃の中国の平均月収が
ちょうどそのくらいだった。
80~90年代当時の中国は
まだ貧しくて、
人々はまだ人民服が多く、
貧相でどこか哀れげに見えた。
バスで隣に座った大卒の通訳から
「先生は月いくらもらってるんですか?」
と訊かれ、
まだ30代だったが、私学だったので
年収600万くらいあり、
月平均50万だとすると
彼らの100倍もらっているとは
さすがに言い難く、
「まあ、みなさんと同じくらいです」
と言葉を濁したことがあった。
生徒もお土産店の交換所で、
数千円を中国紙幣に交換すると
札束になってきて驚いていた。
その時、生徒に
「GDP世界2位の日本は、
いかに金持ちか実感したやろ」
と言うと
「ほんまやなぁ・・・」
と、得心していた。
それが、今や中国が
世界第二の経済大国になり、
億万長者の富裕層が
5.000万人もいるというから
日本の半分くらいが
大金持ちということである。
かつて、
日本人もそうしていたように、
来日した富裕層たちが
旅先でバンバン札ビラ切って
金を落としていくもんだから、
日本人があの頃とは逆に
ヘェヘェしているのが
なんだか情けなくもある。
バブルがはじけて来、
「失われた20年」と言われる
長期経済低迷のトンネルに入って、
今もってパッとしない。
我が身も、
ボンビー・カウンセラーの道に
踏み込んでしまった為に、
“清貧”に生きざるを得ない
晩年になってしまった(笑)。
貧乏をすれど
我が家に風情あり
質の流れに
借金の山
八五郎
名も知らぬ雑草の花々が
健気に咲いているのを
見ることがある。
きのうも
小さな黄色い花に
目がとまった。
そしたら、
『マクベス』のなかの
“弱き者、汝の名は女なり”
というフレーズが蘇り、
“か弱きもの、汝の名は花なり”
というヘンテコなフレーズが
思い浮かんだ。
ただ、
哲学者の井筒 俊彦の言を借りれば、
「存在が花している。
存在が自分している」
ということで、
このものとは等価な関係なんだなぁ・・・と、
再認識させられた。
ビッグバンの特異点では、
互いに同じ一つの粒子だった。
それが、分裂、多様化したものの、
素材的には対して違いがない
生物どうしでもある。
「今、ここ」の時点では、
たまたま、自分として自我を認識しているが、
何処ぞの時点では、
向こう側として
「存在」しているかもしれぬ。
また、万物を構成する素粒子が
波であり粒子としても振舞うという性質から、
「ダルマさんが転んだ」遊びみたいに、
観察者が観察した時にだけ
現象として顕現するのであれば、
自分以外のあらゆる実体が
果たして本当に存在している、
と言えるのだろうか・・・とも、
思ってしまう。
我思う、故に、我あり・・・
とは言うものの、
この我という実体を
認識している意識も
そうとうに怪しいもんである。
なにせ、
睡眠下、麻酔下では、
認識されないのだから・・・。
・・・なぞと、
小さき花にインスパイアされて
愚にもつかない
形而上的な存在論を
思索しながら炎天下を歩いていた。
思弁的に、そうかもしれない・・・と、
現時点で帰結した考えは、
《一にして全、全にして一》
ではないか・・・という、
古典的な一元論的な世界観であり、
世界のすべてが神であるという
汎神論の世界観でもある。
これは、
古代ギリシャ時代から
唱えられており、
「ヘン・カイ・パン/hen kai pan」
と言う。
裏庭の春菊の黄色も
盛りを過ぎた。
黒スグリが開花したかと思ったら、
もう結実しだした。
どんな形、味に成長するか
今から楽しみにしている。
Y中の壊れたチェロを復元すべく、
使えそうなブリッジ(駒)用の板を
ダイソーで買ってきた。
プリント・アウトした画像を
直貼りして、
糸鋸でくり抜いてから
キレイに整形してみようと思う。
来週の講演会での
頒布用の冊子を10部ほど
造本しようと印刷している。
私家出版社ごっこ、
造本家ごっこでもある。
毎度ワンコイン販売だが、
内職仕事のつもりで
楽しんでやろうと心がけている。
30年ほど前、
中国への修学旅行引率時に
上海の工芸館で
総漆・螺鈿造りの中棗(なつめ)を
買い求めてきた。
中国に茶道はないので、
明らかに日本の茶人向けに
職人が「中棗」の形状をコピーして
精魂込めて造りあげた
逸品と思われる。
当時で5.000円ほどだったが、
その頃の中国の平均月収が
ちょうどそのくらいだった。
80~90年代当時の中国は
まだ貧しくて、
人々はまだ人民服が多く、
貧相でどこか哀れげに見えた。
バスで隣に座った大卒の通訳から
「先生は月いくらもらってるんですか?」
と訊かれ、
まだ30代だったが、私学だったので
年収600万くらいあり、
月平均50万だとすると
彼らの100倍もらっているとは
さすがに言い難く、
「まあ、みなさんと同じくらいです」
と言葉を濁したことがあった。
生徒もお土産店の交換所で、
数千円を中国紙幣に交換すると
札束になってきて驚いていた。
その時、生徒に
「GDP世界2位の日本は、
いかに金持ちか実感したやろ」
と言うと
「ほんまやなぁ・・・」
と、得心していた。
それが、今や中国が
世界第二の経済大国になり、
億万長者の富裕層が
5.000万人もいるというから
日本の半分くらいが
大金持ちということである。
かつて、
日本人もそうしていたように、
来日した富裕層たちが
旅先でバンバン札ビラ切って
金を落としていくもんだから、
日本人があの頃とは逆に
ヘェヘェしているのが
なんだか情けなくもある。
バブルがはじけて来、
「失われた20年」と言われる
長期経済低迷のトンネルに入って、
今もってパッとしない。
我が身も、
ボンビー・カウンセラーの道に
踏み込んでしまった為に、
“清貧”に生きざるを得ない
晩年になってしまった(笑)。
貧乏をすれど
我が家に風情あり
質の流れに
借金の山
八五郎
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