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『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

水蓮

2021-06-12 07:05:00 | 風景

モネの『水連』を
彷彿させる
見事な開花期を迎えた
ビオパークに
撮影に出かけてきた。





自宅や学校のような
人工的な室内環境に
常に身を置いていると
「明るさ」も一定、
「風」も吹かず、
「臭い」もない…
というのが
当たり前のような気になっているが、
それが「不自然」である
ということが
自然から教えられる。

人工的環境が
直線主体で構成されているの対し、
自然は水平線や地平線の他は、
すべてが曲線で構成されている。

「色彩」にしても
室内では単色系で〆られるが、
自然は複雑なグラデーションを
呈している。

PC周りは
どれ一つとっても
「有意味」なものばかりで、
何一つ「無意味」なものはない。

それが、
現代文明・文化の
「暮らし」である。

そうした無理矢理に創り上げた
合理的環境に適応すべく
我われはエネルギーを使って
秩序立てるという
エントロピー減少の
反自然的な方向に働くため、
睡眠を必要とするのである。

即ち、眠っている間に、
日中と同量のエネルギーを使って
収支バランスを取るために
脳内で無秩序化へと
エントロピーを増大させている、
と考えられる。









山頭火の句に

 まっすぐな道で
  さみしい

というのがある。

単調でツマラナイ
ともとれるが、
含みのある句である。

***

英語の「ミュージック」は
音楽の女神ミューズが語源だが、
日本語の「曲」は
節や音符が揺蕩(たゆた)う様、
曲がりくねる様を
意味するという。

たしかに、
譜面をみながら演奏していると、
そこに、なだらかなカーヴがあったり、
急勾配があって、そこをどう表現するか
ということに心を配るものである。












ルソーの箴言に

【自然から遠ざかると病が近づいてくる】

というのがある。

至極尤もである、
と若い頃、感心して、
自然に接するようにしてきたが、
それでも、多くの病をしてきた。

老化は致し方ないが、
どうも「不自然」「反自然」なる
人工的環境も禍(わざわい)してると
思ってはいるものの、
建造物に籠って
PC環境で仕事せねばならないのも
実情である。

なればこそ、
もっともっと積極的に
「花鳥風月」を求めて
野に出でよ、
と自らを叱咤している。

仕事柄、
ネット依存症、
ゲーム依存症、
スマホ依存症、
の子どもたちと
多く会っている。

「依存症」は
かつては「中毒」と言ったものだが、
文字通り「毒に中(あた)る」と
言いたいぐらいに
そのデトックスが難しい。

その処方箋のひとつが、
「花鳥風月」である。

それらは無限の自然の
代表に過ぎないが、
たった4つのアイテムでも
解毒作用は大いにある。

海に行けば、
砂浜、波、潮風、海原
という解毒薬がある。











会社の新規事業立ち上げの為、
単身、大阪に先発赴任している
フミが、ウィークデーに
一日だけ帰京して
リク坊を愛でて
トンボ返りしたという。

可愛い盛りなので、
「酸欠キンギョ」みたいに
息子に会いたくなったのだろう(笑)。

来月からは、また、
大阪で親子三人暮らしになるが、
東京-新大阪間は
700系「のぞみ」だと
2時間23分だから、
寸暇を見つけては
帰ってこれるのだろう。









リク坊もそろそろ
「始歩」と「初語」の
時期である。

保育所に入ったら
ネイティヴの大阪弁になる(笑)。

なんだか、
それも不思議な感じだなぁ・・・。

5歳まで京都育ちだった
フミが帰福すると、
生粋の京都弁だったので、
ジジババたちは
それを面白がっていた。






ワタスゲ

2021-06-11 08:17:00 | 風景
昨日は、
ローカル番組で
ワタスゲが見ごろと煽られて、
浄土平まで出かけてきた。

毎年、初夏の
恒例になった
私的行事だが、
正直、今年は
冴えなかった。

まだ、ぽよぽよで、
白さも際立ってはいなかった。

なんだか、
リク坊のアタマみたいだなぁ・・・
と思ってしまった(笑)。






「ワタスゲ」の語呂から、
なぜかすぐに

♪ わ~たしぃが~
   ささげた~ ♪ 

という
「ぴんからトリオ」の
『女のみち』の冒頭の
歌詞とメロディーが
脳裏に浮かぶ。

♪ わーたすげー ♪ (笑)

それと、
志村けんの
「そんです。
わたすげ、変なオジサンです」
という
フレーズも浮かぶ(笑)。








火山活動で
一次閉鎖されていた
レストハウスが
新たに営業を開始していた。

ドライヴインもどきの
厨房だったので、
ラーメン、カツ丼は
高いばかりで味の期待はできず、
初めての
「肉巻きオニギリ串」と
「シャモメンチ」
「燻製玉子」
の軽食にした。

三品で950円なので、
山頂価格である。









毎日、書斎から眺めている
吾妻の山頂まで
自宅からは
49.3㎞だった。

下界の市内は
32℃の真夏日だが、
さすがにお山は
21℃と別世界である。

高原の風は
頬に涼しく
陽は肌にも優しい。










標高は1577mで、
デジタル系と
アナログ系が
ほぼ一致していた。




















「スカイライン」
と言うだけあって、
無限遠方が青空に
溶け込んでいるようだった。

そして、
片側が崖っぷちの
切り立った箇所では、
1500mも眼下の市内が
まるで飛行機から眺める
景色のようであった。

季節によっては、
ガスが出て、
雲海の中を飛行するような
時にも遭遇することがある。









帰宅後、
アマゾンから
養老先生の最新刊が届いていて、
風呂上りに涼みながら
面白く読んだ。






釣り鐘水仙

2021-05-12 07:40:00 | 風景
今朝も爽やかな
五月晴れである。

週の中日の
オフ日なので、
何をしようかと
前の晩から考えていたが、
朝からパラグアイ(腹具合)が
良くないので
トリメブチンと整腸剤を呑んだ。

日中の陽気で
寝室が23℃くらいになるので、
掛け布団を一枚減らしたのだが、
朝方は外気が7℃くらいまで下がり、
寝室も19℃くらいになるので、
寒暖差でお腹をこわしたのかもしれない。

なにせHSPなので、
環境の物理的刺激に
敏感に反応するのである。

そーいや、
ここ数日、
プチ・プチ喘息気味で
二日ほど頓服的に
吸入剤も使っていた。




今週は、
週四日の勤務日で、
土日も
自宅カウンセリングがあるので、
今日は体調を整えるため
出歩かないで
大人しく静養してようと思う。







仕事から帰って来るたびに、
庭のサクランボに
5袋ずつ袋掛けして
20袋くらいでやめにした。

かなりの大木になったので、
それでも全体の1割くらいにしか
及ばない。

高い所は脚立が必要になり、
腕を上げながらの作業は
辛いし、危ないので、
残りは全部トリにくれてやろうと
思っている。

毎日のように
大型のトリが喰いにくるのはいいが、
フンを落とされるのには
閉口する。

その下に、
食用にしている
山椒の木や
ハーブ類があるからである。







先日、
民家園で撮ってきた
花の名前が判らず、
カミさんに訊いたら、
知らなかったようで
図鑑で調べてくれた。

ホタルブクロ属(Campanula)
かと思っていたら、
『ツリガネズイセン』
(釣り鐘水仙)
というスイセン属だった。

英名は「Spanish bluebell」
学名は「Scilla hispanica」
(シッラ・ヒスパニカ)
なので、
スペイン原産のようである。









Eテレの『浦沢直樹の漫勉』で
ホラー漫画家の伊藤潤二を知り、
『人間失格』と代表作の
『うずまき』をアマゾンに
注文した。

そしたら、
既読した
『憂国のラスプーチン』の
作画・漫画家だった。

『人間失格』は
太宰の原作を
忠実に再現したものではなく、
大筋をなぞりながらも、
独特のホラー表現で
ファンタジックに描いている。





昨日は、
予約生徒が二人も
ドテキャンされたので、
空き時間ができて
ネット検索で
「スーフィズム」
(イスラム神秘主義)
の勉強をした。

13世紀・中世の思想家
イブン・アラビーの
『存在一性論』を
井筒 俊彦先生が
解説されていた。

『存在一性論』とは、
万物は見かけ上は
全く違うように見えるが、
実は全て唯一の『存在』の
一形態に過ぎず、
本質的には
同一次元のものである、
ということである。

「神」と呼ぶべきものを、
アラビーは
哲学用語の次元で
「存在」と呼ぶ。

これは
現実にこの世に存在している
「現実存在」とは
全く異なる
「原理存在」である。

「存在」は
無名・無相であり、
一切の「…である」という
述語を受け付けない。

「神である」
とも言えない。

なぜなら
神以前の神は、
普通の意味の
神ではないからである。

「存在」には、
「自己顕現」に向かう志向性が
本源的に備わっており、
「隠れた神」は
「顕れた神」に
ならずにはいられないのである。

「存在」が
「神の名前」を
持つに至る段階は、
言語で意味分節する以前の
全体存在である「空」から
言語で意味分節して表現する
経験的世界である「色」へと
移り変わる段階にあたる。

これは
『般若心経』と
同じことを言っている。

ーーーー

『存在一性論』は
「造物主」と「被造物」を
区別しない。

「存在」は創造者であり、
「超越的絶対者」の異名である。

万物は、
「存在」が
自己展開的に
分節したものである。

真に存在するのは
「存在」のみ
なのである。

井筒先生は
『存在一性論』を
「観想によって開けてくる
意識の形而上学的次元において、
存在を〈究極的一者〉として捉えた上で、
経験的世界のあらゆる存在者を
一者の自己限定として
確立する立場である」
と解説している。

《存在》=〈究極的一者〉
ということで、
この《存在》とは、
我われの身の周りに存在している
《もの》
すなわち具体的な
「存在者」ではない。

井筒先生は
《存在》とは、
「すべての存在者を
存在者たらしめている
存在そのもの」
と言う。

そして、それは、
「存在的活力」
「宇宙に遍在し
十方に貫流する
形而上学的生命的エネルギー」
とも述べられている。

《存在》とは
仏教における、
「全ての存在の
ありのままの真実の姿」
を意味する
「仏性」
「実相」
「真如」
と同次元のもの
と思われる。

「存在を〈究極的一者〉として捉える」
の「捉える」とは、
「観想によって開けてくる
意識の形而上学的次元において」
である。

つまり、
日常的経験の次元
すなわち
表層意識においてではなく、
深層意識によって
「捉える」ことなのである。

ここで注目すべきことは、
意識次元の浅深は
存在次元のそれに相応する
ということである。

「表層」意識によって捉えられる外部世界と
「深層」意識によって捉えられる外部世界は
おのずと別次元に
属しているわけである。

さらに
捉えられた外部世界を表現する言語も
おのずと異なるものになる。

「個々の存在者」が
言語によって有意味的に分節され、
概念によって認識されるのであれば、
経験世界においては
個々の存在者を「ありのまま」に
認識することは不可能である。

それでは、
世界を「ありのまま」に認識するには
どうすればよいのか。

この問いに対して
『存在一性論』は、
主観・客観という
二項対立で表される
「対象的認識」から
脱却することだ
と答える。

そもそも
『存在一性論』は、
「究極的実在」の認識は
経験の土台となる
「表層」意識を超越した
意識の形而上学的次元において
可能になることを説いている。

その次元に
到達するためには、
「表」層意識の担い手である
「自我」が消滅されなければならない。

意識には、表層意識と深層意識があり、
事物にも、表層構造と深層構造があり、
両者は
密接に関係している。

表層意識には
事物の表層構造しか観られず、
深層意識によって
事物の深層構造が観られる。

魂は、
「人間の実存を
神の自己顕現の場、
神が自己を現す場所として
自覚させるもの」
であるという。

この魂は
五段階構造をなしており、
逆三角形の
上から下の順に
表層⇒深層となり

 ナフス・アンマーラ
 ナフス・ラウワ
 ナフス・ムトマインナ
 ルーフ
 シッル

と呼ばれる。

ナフス・アンマーラは
欲望と欲情の場であり、
感性的な自我を構成する。

ナフス・ラウワーマは
知性的機能の次元、
意識の理性的領域に該当する。

ナフス・ムトマインナは
観想に集中し、
完全な静謐の状態に入った意識
を意味する。

ルーフは
いわば「聖霊」を意味し、
スーフィの体験では
宇宙的な光の世界である。

シッルとは
字義的には「秘密」を意味し、
絶対に表に現れてこない
いわば絶対の無であり、
ここにおいて
「自我の消滅」が体験される。

意識が
表層から深層に下るにつれて、
経験世界の言語的な分節の枠組みが
取り除かれてくる。

個々の存在者の独自性
(自我同一性/アイデンティティ)
が喪失していくにつれ、
存在者相互の区別もつかなくなる。

存在者 A は
《A》でありながら、
もはや《A》とは
言われなくなる。

存在者 B も
《B》でありながら
《B》ではなくなる。

存在者 A、B は
もはや名前を付けて
呼ぶことはできず
(主語性を失う)、
《これ》とか《あれ》といった
指示代名詞で呼ぶことも
できなくなる。

「自我の消滅」に達すると
「絶対の無」
《存在》
〈究極的一者〉
となるのである。

我われは、
《何か》を見て、
《何か》を知るのだが、
その《何か》がなくなると
見るものも、知るものも、
なくなる。

認識主体が
もはやここでは
存在していない。

井筒はこれを
「意識のゼロ・ポイント」
と呼び、
それは、すなわち
「実在のゼロ・ポイント」
でもある。

ここへきて、
世界はまったくの
「無分別」の《絶対無》となり、
《存在》そのものとなる。

ただ、
アラビーによれば、
《存在》とは
「絶対的な真実在」ではなく、
あらゆる言語を超えており、
したがって本来において
命名することはできない。

道教でいう
「言語道断」とは、
このことを指し、
言葉は分節・分別するので
道(タオ/物事の本質)を
断ってしまう、
ということなのである。

《神》という名称でさえも
本来においては
真実在を表示しているわけではない。

したがって、
「真の神」というのが在るとすれば、
《神》と名づけられる以前にあって、
それは《無》としかいえない。

この《無》は
「絶対的に無分節なるもの」
であって、
「何も存在しない」
という意味ではない。

井筒先生によれば、
「存在の形而上的根源としての
絶対一者、すなわち
「有」的充実の極限」
なのである。

つまり
《無》=《存在》
なのである。

しかし
《存在》は
そのままで留まっているわけではなく
《存在》は
それ自体においては
実在のゼロ・ポイントであり、
すべての存在者が発出してくる
第一の始原でもある。

井筒先生は
《存在》を
「存在的活力」
あるいは
「形而上学的生命的エネルギー」
と解した。

《存在》が
自己分節することによって、
《無》から自己を現わすことを
アラビーは
「自己顕現」と言った。

神の創造行為とは、
神の自己顕現にほかならない。

つまり
本来において
無名である《存在》が
存在次元に降りてくるに従って、
名称が付けられることになる。

イスラムでは、
その降下の第一段階が
「アッラー」としての
自己顕現の段階であり、
その意味で
「アッラー」は
神の第一の神名である。

ーーーーー

それでは
この世界は
いかに描写できるのか。

ここでは
「個々の存在者」は
「本質なきもの」となっているから、
これらを命題の主語にはできない。

実在しているのは
《存在》のみである。

したがって、
《存在》を主語とする
哲学的なメタ言語が
必要となる。

経験世界では、
「Aが存在している」
と言われるが、
絶対無の世界では、
「存在がAしている」
と表現されることになる。

「私が存在している」
のではなく
「存在が私している」
のである(笑)。

意識の構造は
表層から深層に向けて
逆三角形をなしており、
実在の構造は
ゼロ・ポイントを頂点とした
三角形をなしている。

意識が深層に下降するにつれ、
≪存在≫に近づき、
実在の度合いは上がっていく。

その頂点においては
自我意識は消滅し、
意識は無化状態となる。

しかし
井筒先生によれば、
そこには
無化された自我意識そのものが
いまだ残存しているというのである(笑)。

そこで
遺棄されている無でさえも
いまだ他者として存在している
ということである。

したがって、
自我意識の消滅が
完成するためには、
消滅した意識それ自体も
無化されなくてはならない。

これを井筒先生は
《消滅の消滅》
《純粋な無》
《絶対的な無》
と表現している。

「無それ自体が
無化されることは、
意識の無が
無の自覚として
甦ることを意味する」
・・・というのだが
 
ε= (+_+) ムムムムッ

・・・で、
さっぱり理解できない(笑)。

「ここに、
無化された意識が
あらためて有化されたところに
成立する超越的主体が
明らかとなる」
・・・のだそうだ。

モゥ…ヾ(_ _。) ノ ㇻメ~♡ ガクッ

「実在の領域に即して言えば、
いったん否定された
個々の存在者の本質が
絶対無としての
究極的実在の自己顕現として
甦ってくるということになる。

「空」の観点からいえば、
経験世界において
《実》とされていた
個々の存在者の存在が
「空」によって否定され
《仮》となり、
「空」が「空ぜられる」ことによって、
個々の存在者は
《実相》として存在している
ということになる」

・・・のだそうだ(笑)。

(/^_^)/ チュド~ン! 

アタマが
爆発した~い!!(笑)。

難解ホークスや~!!!

ヒ~ッ ! ε=ε=ε=ヾ(*。>◇<)ノ











民家園

2021-05-10 06:29:00 | 風景
日曜のきのう、
カミさんと何処かに
お昼をしに行こうかと
候補地を探して、
久しぶりに民家園隣にある
茶店風の『室石』に
赴いてみた。





子どもたちが
幼い頃に
さんざん遊んだ
アスレチック公園を突き抜け、
新緑の並木通りを歩いて
店に向かったが、
なんと、廃屋然として
閉店していた。

思えば、
子どもたちが幼い頃に
来て以来なので、
その間に、とっくに
潰れたのかもれしない。

『食べログ』には
そんな閉店情報は
載っていなかった。







仕方なく、
これも子どもたちが
幼い頃に訪ねて来、
民家園をのぞいて見た。

一昨年だったか、
クマが出たという
ニュースもあったので、
入口の管理人さんに
「クマは大丈夫ですか?」
と訊いてみたら、
「今んとこ、大丈夫です」
とのことだった(笑)。

そしたら、入ってすぐに、
カミさんが
「熊がいそう!」
と言うので、
驚いてその方向を見たら、
なんと
「クマガイソウ」
の群生があった(笑)。

見事に、
ピッタリと語呂が
合って、
シンクロニシティックで
笑えてしまった。








竹やぶには
採り頃の筍が
地面から顔を出してたが、
さすがに管理人室から
目が届く処だったので、
手だし出来なかった(笑)。

バンブーシュート・ハンターの
トーチャンは、もう、
採りたくって
ムズムズした(笑)。







池の傍には
アヤメがきれいに
咲きそろって
いかにも古民家の風情に
合っていた。







むかし訪れた時は、
なーんだ、つまんねー・・・と、
ちっとバカにして
どーせ・・・と、
高を括っていたが、
実際に再訪してみると、
見所がたくさんあって
驚いた。

元々、自然林の処に
移築したので、
自然の草花が多種あって、
植物ハカセのカミさんにも
分からない花があって、
帰宅後に図鑑で調べていた。

自然林を借景にした
日本庭園は
京都チックでもあり、
金沢チックでもあった。

また、古民家が
三棟見通せる位置に立つと
まるでタイムスリップしたか、
時代劇のセットに迷い込んだような
不思議な気分も味わえた。








茅葺屋根の商人宿は
新緑の楓を透かして見た一角が
まるで慈照寺「銀閣寺」のような
シルエットを見せていた。









連ドラ『エール』でも、
ハーモニカの発表会のロケで
使われたという
むかしの舞台は
内部を観覧できた。

カミさんは、
タイトルは忘れたらしいが
『なんたら・・・』
っていう映画でも
ここが使われたのを
見た事がある、と言っていた。









昼食は近くの
『リトルくん太郎』で済ませ、
『ささき牧場』に
苺ソフトを食べて立ち寄った。

フレッシュ苺で創る
粒々の入った
酸味のあるアイスは
なかなか佳かった。

ついでに、
市内で唯一の
ワサビ田から採れる
本山葵を150円という
廉価で買ってきた。

これを鮫皮のおろし器で
円を描がくように
ネットリと擦りおろし
真鯛の燻製、
酢平目、漬け平目、
炙り平目、煮穴子などと
合わせてみた。

お酒がよく進み、
♪ ジーチャン
  さーけのんで
   酔っぱらって
    ひっくり返った ♫




クマガイソウ

2021-05-09 07:42:00 | 風景
休日のきのう、
カミさんが
どっかに行きたいというので、
ほんじゃ、ま、気になってた
「東和道の駅」にある中華店の
『大榮餃子房』にでも
行ってみっぺか・・・と、
開店の11時に到着するように
navi頼りで出かけてみた。

途中からは
自分が10年間通勤していた
小野高への通勤路と気付いて
naviも不要になった。




道の駅内の中華店は
珍しいが、
ラーメンもチャーハンも
ドライヴイン並のものだった。

『食べログ』で
画像で見た時には
小籠包のような餃子に
食指が動かされたが、
味がイマイチのもので
見た目だけのものだった。






道の駅にあった
周辺観光案内で、
「クマガイソウ祭り」が
ちょうど時季に当たっていたので、
初めて「羽山の里」という処まで
足を延ばしてみた。

目的のもの以外で、
偶然に価値あるものを見つけるのを
「セレンディピティ(serendipity)」
というが、
今回も、まさに、
そんな感じであった。

水原で見た群生とは
また違った趣きがあって
よかった。










先日の
半田沼で偶然見つけた
シラネアオイの群生のように、
今回も花好きの
カミさんが「持ってる」
ツキみたいなものも感じた。












水原の群生で
その名の由来は知ったが、
ここにも同じ説明書きがあった。

筆墨で書かれてたので
「字体」の勉強になり、
書家の癖や工夫を
分析的に鑑賞して
楽しむことも出来た。

帰宅後には、
さっそく形臨してみた。

そして、
ネットにあった
王 義之の字体で書かれた
『般若心経』をプリントアウトして
これから、作品創りの
手本にしようと思った。

先日の震度6の
大余震で壊れた姿見鏡の
木枠だけ残ったので、
そこに般若心経を書いて
額装してK中のカウンセリング室に
飾ろうと計画している。

きのうは
『オフィス8』の書道具コーナーに
「全紙」版の用紙を買いに行ったら
置いてなくって、
仕方がないので、
障子紙を貼り合わせて
作ろうと思っている。







これまで、
Y中のキャビネットに飾っていた
ドールやウサギの親子を
K中の箱庭ツール用にしようと
撤収してきた。

きょうは、
箱庭に用いる樹木類を
ダイソー製品で作れないか
その素材を探しに行こう
と思っている。



******* ******* *******


YouTubeで
お気に入りの
通称『ヨビノリ』
(予備校のノリで物理・数学)
を、暇を見ては視聴している。

先日は、
『量子力学入門』の
2時間半の講義を聞いて、
いろいろと新たな気付きを得た。

勉強になったのは、
ミクロ・レベルの
量子の不思議な振る舞いが
そのままマクロ・レベルの
実体の現実とは直接つながらない
可能性もあるということだった。

それでも、
実験で証明されている
数々の量子の不思議な振る舞いは
この世界を別視点から
ファンタジックに
見せてくれるものである。

量子特有の「重ね合わせ」や
「エンタングルメント(もつれ)」
なぞの現象について
ノート上で思考実験していると、
「意識」の不思議さにも
時折、腑に落ちるような仮説が
思い浮かぶ。

その一つが、
「焦点化(focusing)」問題である。

意識も視界も
focusingしている限り、
同時に二つを処理できない。

一つの事を考えている時に
別な事は考えられないし、
一ケ所を凝視している時に、
他の所を視認することはできない。

これを自意識まで敷衍すると、
「宇宙・世界・意識を
ワンネス(一つのもの)」
と仮定すると、
「今、自分を意識している時」には、
『不確定性原理』のように
「他の誰の<自意識>」も
経験することは出来ないのでは、
という気がした。

それと、
例外はあるが、
何故、我々は「前世」の記憶を
失うのか…という命題は、
「現世」をより直接的、明確的に
体験・意識化するための
仕様なのではないか・・・と。

そして、また、
「有意味性」の成立には、
音楽では時間的、
絵画では空間的な
「差異性」と「関係性」
が必要であり、
それらは、すべて
意識の「今ここで」という
焦点化が必要なのだという、
当たり前のような事を
再認識させられた。

この「自意識」は、
自分の脳が電気生理的に
発生させている現象である、
と脳科学は説明するが、
深淵なインド哲学
「不二一元論」
(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)
では、唯一の「実在するもの」の
実相というように説いており、
それはそれで説得力がある。

その根源的な存在である
「自意識」は、
実は文化によっては
「神」や「宇宙そのもの」
とされるものであり、
始まりもなく終わりもない、
まさに「永遠性」を持つ「存在」で、
よって、現世のコロナ禍如きで
脅かされるものではない、
というのである。

これを端的に
【実在するものは脅かされない】
としている。