休日のきのう、
カミさんが
どっかに行きたいというので、
ほんじゃ、ま、気になってた
「東和道の駅」にある中華店の
『大榮餃子房』にでも
行ってみっぺか・・・と、
開店の11時に到着するように
navi頼りで出かけてみた。
途中からは
自分が10年間通勤していた
小野高への通勤路と気付いて
naviも不要になった。

道の駅内の中華店は
珍しいが、
ラーメンもチャーハンも
ドライヴイン並のものだった。
『食べログ』で
画像で見た時には
小籠包のような餃子に
食指が動かされたが、
味がイマイチのもので
見た目だけのものだった。

道の駅にあった
周辺観光案内で、
「クマガイソウ祭り」が
ちょうど時季に当たっていたので、
初めて「羽山の里」という処まで
足を延ばしてみた。
目的のもの以外で、
偶然に価値あるものを見つけるのを
「セレンディピティ(serendipity)」
というが、
今回も、まさに、
そんな感じであった。
水原で見た群生とは
また違った趣きがあって
よかった。

先日の
半田沼で偶然見つけた
シラネアオイの群生のように、
今回も花好きの
カミさんが「持ってる」
ツキみたいなものも感じた。

水原の群生で
その名の由来は知ったが、
ここにも同じ説明書きがあった。
筆墨で書かれてたので
「字体」の勉強になり、
書家の癖や工夫を
分析的に鑑賞して
楽しむことも出来た。
帰宅後には、
さっそく形臨してみた。
そして、
ネットにあった
王 義之の字体で書かれた
『般若心経』をプリントアウトして
これから、作品創りの
手本にしようと思った。
先日の震度6の
大余震で壊れた姿見鏡の
木枠だけ残ったので、
そこに般若心経を書いて
額装してK中のカウンセリング室に
飾ろうと計画している。
きのうは
『オフィス8』の書道具コーナーに
「全紙」版の用紙を買いに行ったら
置いてなくって、
仕方がないので、
障子紙を貼り合わせて
作ろうと思っている。

これまで、
Y中のキャビネットに飾っていた
ドールやウサギの親子を
K中の箱庭ツール用にしようと
撤収してきた。
きょうは、
箱庭に用いる樹木類を
ダイソー製品で作れないか
その素材を探しに行こう
と思っている。
******* ******* *******
YouTubeで
お気に入りの
通称『ヨビノリ』
(予備校のノリで物理・数学)
を、暇を見ては視聴している。
先日は、
『量子力学入門』の
2時間半の講義を聞いて、
いろいろと新たな気付きを得た。
勉強になったのは、
ミクロ・レベルの
量子の不思議な振る舞いが
そのままマクロ・レベルの
実体の現実とは直接つながらない
可能性もあるということだった。
それでも、
実験で証明されている
数々の量子の不思議な振る舞いは
この世界を別視点から
ファンタジックに
見せてくれるものである。
量子特有の「重ね合わせ」や
「エンタングルメント(もつれ)」
なぞの現象について
ノート上で思考実験していると、
「意識」の不思議さにも
時折、腑に落ちるような仮説が
思い浮かぶ。
その一つが、
「焦点化(focusing)」問題である。
意識も視界も
focusingしている限り、
同時に二つを処理できない。
一つの事を考えている時に
別な事は考えられないし、
一ケ所を凝視している時に、
他の所を視認することはできない。
これを自意識まで敷衍すると、
「宇宙・世界・意識を
ワンネス(一つのもの)」
と仮定すると、
「今、自分を意識している時」には、
『不確定性原理』のように
「他の誰の<自意識>」も
経験することは出来ないのでは、
という気がした。
それと、
例外はあるが、
何故、我々は「前世」の記憶を
失うのか…という命題は、
「現世」をより直接的、明確的に
体験・意識化するための
仕様なのではないか・・・と。
そして、また、
「有意味性」の成立には、
音楽では時間的、
絵画では空間的な
「差異性」と「関係性」
が必要であり、
それらは、すべて
意識の「今ここで」という
焦点化が必要なのだという、
当たり前のような事を
再認識させられた。
この「自意識」は、
自分の脳が電気生理的に
発生させている現象である、
と脳科学は説明するが、
深淵なインド哲学
「不二一元論」
(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)
では、唯一の「実在するもの」の
実相というように説いており、
それはそれで説得力がある。
その根源的な存在である
「自意識」は、
実は文化によっては
「神」や「宇宙そのもの」
とされるものであり、
始まりもなく終わりもない、
まさに「永遠性」を持つ「存在」で、
よって、現世のコロナ禍如きで
脅かされるものではない、
というのである。
これを端的に
【実在するものは脅かされない】
としている。
カミさんが
どっかに行きたいというので、
ほんじゃ、ま、気になってた
「東和道の駅」にある中華店の
『大榮餃子房』にでも
行ってみっぺか・・・と、
開店の11時に到着するように
navi頼りで出かけてみた。
途中からは
自分が10年間通勤していた
小野高への通勤路と気付いて
naviも不要になった。

道の駅内の中華店は
珍しいが、
ラーメンもチャーハンも
ドライヴイン並のものだった。
『食べログ』で
画像で見た時には
小籠包のような餃子に
食指が動かされたが、
味がイマイチのもので
見た目だけのものだった。

道の駅にあった
周辺観光案内で、
「クマガイソウ祭り」が
ちょうど時季に当たっていたので、
初めて「羽山の里」という処まで
足を延ばしてみた。
目的のもの以外で、
偶然に価値あるものを見つけるのを
「セレンディピティ(serendipity)」
というが、
今回も、まさに、
そんな感じであった。
水原で見た群生とは
また違った趣きがあって
よかった。

先日の
半田沼で偶然見つけた
シラネアオイの群生のように、
今回も花好きの
カミさんが「持ってる」
ツキみたいなものも感じた。

水原の群生で
その名の由来は知ったが、
ここにも同じ説明書きがあった。
筆墨で書かれてたので
「字体」の勉強になり、
書家の癖や工夫を
分析的に鑑賞して
楽しむことも出来た。
帰宅後には、
さっそく形臨してみた。
そして、
ネットにあった
王 義之の字体で書かれた
『般若心経』をプリントアウトして
これから、作品創りの
手本にしようと思った。
先日の震度6の
大余震で壊れた姿見鏡の
木枠だけ残ったので、
そこに般若心経を書いて
額装してK中のカウンセリング室に
飾ろうと計画している。
きのうは
『オフィス8』の書道具コーナーに
「全紙」版の用紙を買いに行ったら
置いてなくって、
仕方がないので、
障子紙を貼り合わせて
作ろうと思っている。

これまで、
Y中のキャビネットに飾っていた
ドールやウサギの親子を
K中の箱庭ツール用にしようと
撤収してきた。
きょうは、
箱庭に用いる樹木類を
ダイソー製品で作れないか
その素材を探しに行こう
と思っている。
******* ******* *******
YouTubeで
お気に入りの
通称『ヨビノリ』
(予備校のノリで物理・数学)
を、暇を見ては視聴している。
先日は、
『量子力学入門』の
2時間半の講義を聞いて、
いろいろと新たな気付きを得た。
勉強になったのは、
ミクロ・レベルの
量子の不思議な振る舞いが
そのままマクロ・レベルの
実体の現実とは直接つながらない
可能性もあるということだった。
それでも、
実験で証明されている
数々の量子の不思議な振る舞いは
この世界を別視点から
ファンタジックに
見せてくれるものである。
量子特有の「重ね合わせ」や
「エンタングルメント(もつれ)」
なぞの現象について
ノート上で思考実験していると、
「意識」の不思議さにも
時折、腑に落ちるような仮説が
思い浮かぶ。
その一つが、
「焦点化(focusing)」問題である。
意識も視界も
focusingしている限り、
同時に二つを処理できない。
一つの事を考えている時に
別な事は考えられないし、
一ケ所を凝視している時に、
他の所を視認することはできない。
これを自意識まで敷衍すると、
「宇宙・世界・意識を
ワンネス(一つのもの)」
と仮定すると、
「今、自分を意識している時」には、
『不確定性原理』のように
「他の誰の<自意識>」も
経験することは出来ないのでは、
という気がした。
それと、
例外はあるが、
何故、我々は「前世」の記憶を
失うのか…という命題は、
「現世」をより直接的、明確的に
体験・意識化するための
仕様なのではないか・・・と。
そして、また、
「有意味性」の成立には、
音楽では時間的、
絵画では空間的な
「差異性」と「関係性」
が必要であり、
それらは、すべて
意識の「今ここで」という
焦点化が必要なのだという、
当たり前のような事を
再認識させられた。
この「自意識」は、
自分の脳が電気生理的に
発生させている現象である、
と脳科学は説明するが、
深淵なインド哲学
「不二一元論」
(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)
では、唯一の「実在するもの」の
実相というように説いており、
それはそれで説得力がある。
その根源的な存在である
「自意識」は、
実は文化によっては
「神」や「宇宙そのもの」
とされるものであり、
始まりもなく終わりもない、
まさに「永遠性」を持つ「存在」で、
よって、現世のコロナ禍如きで
脅かされるものではない、
というのである。
これを端的に
【実在するものは脅かされない】
としている。
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