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『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

老い・・・

2019-08-21 06:37:00 | 
きのうは午前中に
老母の退院のために
迎えに行った。

ベッドに伏した姿は、
骨と皮だけになって縮こまり、
点滴やぶつけて出来たアザだらけ
皺だらけの腕を見て
「老い」の悲惨さを見せつけらて
気が滅入りそうだった。

三人部屋の病室から
外の風景を眺めると
子どもの頃、
旧医大の小児病棟に
長いこと入院していた時のことを
思い出した。

その時は、
母親が付き添いで
自分がベッドに伏していた。

年月を経て、
それが逆転の構図になり、
その老母の晩年をどう看取るか
という人生のステージに来た。

ベッドから車椅子に
移そうという時に、
大量の粗相をしていたので
看護婦さんがカーテンを引いて
清拭して下さり、
病棟のパジャマを貸してくれた。

子どもの頃、
ネションベン垂れで
よく母親から叱られていたが、
それも逆転構図になり、
垂れ流しを目の当たりにすると
「悲哀」と「無常」を
感じずにはいられなかった。

「生病老死」の姿を
亡き祖父母・父たちが
それぞれ見せてくれたが、
いずれの姿も
目で見せてくれた「教育」だと
受け止めてきた。

祖母も認知症で
よく垂れ流しては
始末したこともあったが、
25年来同居していた祖母を置いて
大阪に赴任した時に心情を句にした。

 フクシマで
  死ぬまで生きよ
   クソ垂れババア

看護師や介護士たちが
それぞれプロの手馴れた手つきで
声かけをしながら
老母を取り扱うのを見ていると、
なんだかその手間と大変な事を
金で解決しているような
後ろめたさを感じないでもなかった。

でも、
四六時中それに付き切りで、
心身疲弊し、思考停止になって、
しまいには身内が手にかけるという
哀れな事件が少なくないので、
「金で解決」というのは
「次善策」なんだ・・・と、
思うことにしている。

なにより、
その負担金は
老母自らが年金をきっちりと
払ってきてくれたことで
すべて賄われているので、
これは子ども孝行であったと
ありがたく思っている。

2週間の入院の
請求書の実費は77万で、
実質は一割負担の7.7万だったが、
その高額医療を見るにつけても
ビンボー人は老後の治療も
ままならないなぁ・・・と、
ため息が出た。

もっとも、
ナマポ(生活保護)は
医療費がタダにはなるのだろうが・・・。



看護婦さん二人が
エレベーターまで
退院の見送りをしてくだすったが、
「また、近々、
お世話になるかもしれません」
と、挨拶しておいた。

二回目の入院だったが、
微細な脳梗塞と脳溢血を
交互に発症しているので、
Dデイまでは
また度々世話になる予感がしたので、
その時は、子として、
粛々と看取り介助をしようと
覚悟した。



カミさんが買っていた
【本屋大賞】の
『そして、バトンは渡された』を
借りて読んでみた。

【大賞】物は、
おととしの
『蜜蜂と遠雷』以来である。

あれはピアノ・コンクール物で
抜群に面白かった。

『そしバト』は、
ライトノベル風の
軽味のある作品で、
笑わせもし、エンディングでは
泣かせもしてくれた。

例によって、
ワルイ癖で
アマゾンのレヴューで
世間のコンセンサスを
覗いてみた。

星5つ 45% *****
星4つ 20% **+
星3つ 13% *+
星2つ 13% *+
星1つ 9% *

…という、
概ね「良評価」に傾いていた。

〈くさす派〉は
常に一割は居るもので、
これらは〈くさし〉と
呼ぶことにしている(笑)。

曰く・・・
「薄っぺらい、中身のない内容」
「まったく現実的でない夢物語」
「羞恥心のない乞食根性のクソガキに共感できない」
と、クサシは様々。

映画化しやすい
素材のようにも思えたので、
それも近々、現実化するかもである。



明け方に、
久しぶりに、中学時代に
恋焦がれた女の子の夢を見た。

ほとんど
言葉を交わしたことのない子だったが、
夢んなかでは
意識しながらも
けっこうしゃべっており、
しかも、結末は、
その子が性転換していて
男性器まで顔の皮膚を移植して
整形したと聞いて愕然とする。

なんじゃ~、
この夢は~ッ!!
と、起きしなに
驚いた。

ε=ε=ヾ(*。>◇<)ノ

夢分析の専門家なので、
今日一日かけて
ぽつぽつと
分析するつもりではいる。

自由連想法と
ウォッチワード・テストという
ツールを用いて
自己分析してみると、
意外な無意識からのメッセージを
受け取ることがある。

まずは、
現状の意識を列挙して、
それとの関連性や、
世界情勢を俯瞰して
懸念材料との関連性を
探ってみようと思う。

〈あおり事件〉の低脳犯の
劣悪・凶暴な犯行シーンや
卑劣・卑怯な逮捕シーンを
ニュースで何度も見せられて、
不快に感じ、ここ数日、
心穏やかでなかった。

自分も過去、二回も
ヤンキーや暴走族に
胸ぐらをつかまれて脅されたり、
土下座させられた、
という恐怖と屈辱の〈闇史〉があるので、
それで抑圧・忘却していた
「悔しさ」や「殺してやりたい」
というシャドウが
賦活したのかもしれない。

それにしても、
なんで美少女のSちゃんが、
男に性転換して、
しかも、魔術で部屋を猛回転させて、
それをストップさせると
お払い用の「お札」を
撒きちらす…。

【・_・?】ナンデ








炎暑/酷暑/猛暑・・・読書三昧・音楽三昧

2019-07-31 04:47:00 | 
猛暑続きである。

今日は37℃になるとか・・・。

さすがに、
終日、冷房下の寝室と
茹だるような炎熱の廊下/トイレとを
出入りしてると、
枝雀の落語にある
「わいは、焼き豆腐かぁ・・・」
と、言いたくなる。

水を潜ったり
焼かれたり…という、
落語ならではの喩えである。

熱中症にこそならねど、
さすがに、毎晩の熱帯夜つづきで、
朝の寝起きは最悪で・・・
ダルさや節々の痛さに悩まされている。

その不快感が続くと
「うつ」になってまうので、
もう躊躇せずに
市販のイブプロフェンを
朝だけ呑んでいる。

物理的ストレスで
免疫力が低下してか、
体中の右側だけ
口内炎や毛嚢炎が
いくつか出来ていて
その痛みも二次的ストレスになっている。

あと一週間も
猛暑日が続くというので、
ウンザリだが・・・・・・
この間に上手くカラダが
「暑熱順化」してくれればいいのだが・・・。

まさに、
夏休みでよかった・・・であるし、
エアコン、扇風機があってよかった。

今朝方、
やや、焦げ臭いニオイがして、
扇風機のモーター部分に触れてみたら
恐ろしいほどに加熱していて、
ちっとヤバかった。

なにせ、前日の午前から
オールナイトで朝方まで20時間近く
ぶん回していたから・・・
危うくモーターが焼き切れる処だった。

文明の利器によって
命がつながれているという
危うい感じがしないでもない・・・。

かつて、パリやインドで
40℃の炎暑で数千人が死んだことがある・・・
というのは、エアコンなしでの
状況下である。





猛暑日には
不要不急の外出は
極力控えているので、
もっぱら、寝室に籠もって
音楽を聞きながらの
読書にあてている。

この夏休みは、
また、村上春樹を
いくつか読もうと思っている。

例によって
古書店の100円コーナーで
旧著を幾冊か仕入れてきた。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
という長ったらしい名の作品は
2013年の震災以降のもので、
作者の「オウム事件」以前・以後の
作風の変化同様に、
デヴュー時の70年代とは
かなり異質感がある。

それでも、
「死と再生」という
通過儀礼的なテーマは
一貫しているようだ。

作品のストーリーを味わいながらも、
箴言的箇所には朱線を引き、
心理分析素材には付箋を貼りながら
分析的にも読んだ。

「限定して興味を持てる対象が
この人生でひとつでも見つかれば、
それはもう立派な達成じゃないですか」

「コーヒー豆に凝るのは、
貧乏な生活を送っている彼にとっての
ほとんど唯一の贅沢だった」

「才能というのは、
肉体と意識の強靭な集中に支えられて、
初めて機能を発揮するものだ」

「モーツァルトやシューベルトは若死にしたが、
彼らは生命を削り、早すぎる死を受容することによって、
その天才の代価を支払うことになる。
それは命を賭けた取り引のようなものだ」

「何かの手段を見つけて、
積極的に命を絶つほどのエネルギーは
俺にはないが、
死を黙ってそのまま受容するくらいはできる」

「人生は長く、時として過酷なものだ。
犠牲者が必要とされる場合もある。
誰かがその役を務めなくてはならない。
そして人の身体は脆く、傷つきやすく、
切れば血が流れるように作られている」

ユンギャン(ユング派)の
サイコアナリスト(心理分析家)としては、
多重のペルソナ(外的人格)と
アニマ(内的人格)を
曼荼羅的に統合すべく
self realization(自己実現化)を
図ろうとする表層意識の努力が破綻して、
5人グループ内のひとりは〔狂い/他殺死〕に及び、
主人公は〔トラウマ/魂の放浪〕となると読めた。

もすこし突っ込んで、
掘り下げもできそうなので、
いずれ、お弟子さんとの
「魂理学セミナー」での
テキストの一つとしても
取り上げたいと思っている。

かつては、
1000頁にも及ぶ
世紀の大作/傑作/問題作である
『ねじまき鳥クロニクル』を
1年間かけて分析したのを
発表し冊子化もした。
(https://ncode.syosetu.com/n3675dt/)

発表来、
2年半経つが
現在、ちょうど1万人の
アクセスを得ている。

河合先生が生きておられたら、
やられたかもしれない仕事を
代わりにやらせて頂いているような
思いでいる。

***

デヴュー作で
〔群像新人賞〕受賞作の
『風の歌を聴け』は、
モザイク的な
メタ文学的な構成であり、
それはそれで斬新でもあったが、
物語としては円熟の現在に比して
薄っぺらいものだった。

ただ、これより、
作者の一貫して
「性」への「聖性と俗性」の追求が
ひとつのテーマになっていくことは
よく理解できた。

それは、
図らずもユングが
「性は、天国から地獄まである」
と言った名言に
通ずるものを感じさせられた。

この点も、
魂理学セミナーでの
これからの
研究分析テーマとしたいと思っている。

***

今は、2009年の
『1Q84』を読み始めている。

これも、1000頁ほどの大作だが、
3.11前の作者の到達点を
理解するのにいい作品かもしれない。

まだ、
1巻目だが、
デュアル・ストラクチュア
(二重構成)の一話が、
まるでオキニの漫画
『響』に酷似しており、
あんがい、ここからヒントを得て
創作されたのかも、
と思わないでもなかった。





読書に飽くと、
録画物を鑑賞して、
酷暑中のホーム・バケーションを
やり過ごしている。

BSプレミアムで録った
ウィーンフィルの
『シェーンブルン・サマコン』を鑑賞した。

2017年のニュー・イヤーに初登場した
ドゥダメルの指揮であった。

彼は、ベネズエラ出身という
珍しいキャリアながら、
ラトルやアバドに認められ、
コンクール優勝後に
ヨーロッパで活躍するようになった。

ヴァルトビューネでも、
2017年に
ベルリン・フィルを指揮している。

***

先週の
音楽堂への定演通いで、
『ぶらあぼ』なる
フリー冊子を初めて
ロビーで手に取った。

けっこうな厚みで、
全国のクラシック・コンサートが
網羅されており、
その規模に驚かされた。






ライフ・モットーの
「人生深生き」
を実践するにあたっては、
「嫌なことはやらないこと」

「好きな事・物・人」
と共に在ること、
を遂行している。

今の実家を改築した住まいが
“終(つい)の棲家”になることは
間違いないが、
これまで、仙台、大阪、京都と
棲んできて、
市内では柳町、吉倉、清水町と
暮らしてきた。

16年前の前宅でも、
幸いに「書斎」兼「カウンセリング室」兼
「ギターレッスン室」を持てていたが、
「書香」と「古楽器」が共にあることが、
自分にとっての“幸福アイテム”と
気づきはじめていた。

そして、
京都の住まいからこの方35年間、
ずっと「茶室」も持てている。

元同僚のクモ博士・田中先生が
学会で来福の折、
拙宅のお茶室で
おもてなしさせて頂いたら、
しみじみと
「こんなん、ふつう持てへんでぇ・・・」
と仰っていた。

これも、
我が幸福アイテムの
一つなのだろう。

去年、作庭した苔庭も、
さらなる幸福アイテムになる筈だったが、
残念ながら根が付かず、
風で飛んだり、枯れたり、
今は夏草の繁茂する勢力に
すっかり隠されてしまっている。

プチ・マイブームだった苔熱も、
近頃はすっかり醒めた感がある。

***

とりあえず、
今日、明日、あさって・・・
さらに数日の猛暑に耐え、
生き延びることが
初老を生きる課題のようでもある。

´´(;´ρ`A) アチィ…  

あ、そ、そ…。
今日は、
午前中にカウンセリング、
午後からギターレッスン、
夜から宗教臨床セミナー、
があったんだっけ・・・。

まったくのオフ日と
ちゃうかったーぃ。

ヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3 ハタラカネバ…





おこもり

2019-07-21 05:55:00 | 
どうも自分には、
マンガモードと
小説モード、映画モードと、
周期的に来るようで、
とことんマンガを読んでると
無性に小説が読みたくなり
活字にかかりっきりになる。

それに飽くと
今度は思いっきり映画が見たくなる。

…といっても、
いっときは劇場通いに
明け暮れていたが、
最近はもっぱらBS録画が多く、
年間100本近く観ている。

マンガ→小説→映画
 ↑      ↓
  ←←←←←

…というのは、
あんがい理に適った
サイクルなのかもしれない。

マンガは、
活字+ヴィジュアル媒体で、
映画は、
ヴィジュアル+オーディアル媒体だが、
小説がいちばんシンプルゆえに
想像力を掻き立ててくれる。

思うに、
リビドー/サイコ・エネルギーの関与は、
小説>マンガ>映画
の順であろうか。

映画は、丸ごと受身で、
ただ観てりゃあいい(笑)。

小説は、
読むというアクティヴな
インヴォルヴメント(関与)が要る。





丸々二日間、
家から一歩も出ず、
寝室に籠もりっ切りで、
598頁もある
中島らもの超大作
『ガダラの豚』を読破した。

文庫版では
3冊の分冊になっているが、
新書版だと750gもあって
手に持ちながら読むのには
かなりの負荷だったので、
書見台とクリップを用いて
フリーハンドで臨んだ。

らも氏の作品は、
エッセイ等も含めほぼ読んできたが
この『ガダラ』は
氏の最高傑作と言ってよかろう。

アフリカの呪術をめぐる噺で、
理不尽な「呪い」と対峙する
日本の文化人類学者一家の
サスペンス物である。

緻密な活劇描写が
映画のように生き生きとしており、
まるで読む『インディー・ジョーンズ』
のようでさえあった。

〔日本推理作家協会賞受賞作〕
となったのも
むべなるかなである。

らも氏は晩年、
新作の『こどもの一生』が
ホラー大作だと自ら喧伝していたので、
乗せられて読んでみたら
さほどでもなく
(アル中の大言壮語?・・・笑)、
『ガダラ』の方が
ホラー作品としても一級品である。

なんせ、二日間、
家に縛り付けられるほど
夢中にさせられたのだから・・・。

これが、
未だに映画化されてこなかったのが
不思議なくらいだが
(マンガ化はある)、
映画以上に映像的描写だから
映画人も二の足を踏んできたのだろうか。

「ガダ豚」ファンの間でも
映画化の要望は多いようで、
勝手にキャスティングを
組んでるサイトもあった(笑)。

自分なら、
このシーンにどんな音楽を使うか、
という劇伴が浮かんだが・・・。

久石 譲なら
どんな音楽を創作するだろうか、
なぞと考えてみるのも興味深い。






今週は、
定演ウィークで
橘高「ブラ4」
福高「ラフ2」
ジュニオケ「ドヴォ8」
と3つのシンフォニーを
音楽堂で聴くつもりなので、
せっせと復習をしている。

ブラ4は
いろんな盤があるが、
教員時代に高槻の新星堂で買った
バルビローリの全集のが
いちばんのお気に入りである。

当時、出だしを耳にして、
「ウワーッ!!
トロッケン・ベーレン・アウスレーゼだぁーッ!!」
と、思わず叫んでしまった。

それは、
ドイツの極甘でトロリとした
極上の「貴腐ワイン」である。

久しぶりに聴いてみて、
当時の感動が蘇ってきた。

ライナーノーツを読んで、
堂々とした力強いフレーズを
「騎士の動機」といったり、
最終楽章が「シャコンヌ」形式だったのを
久しぶりに思い出した。

20代の頃には、
ドーバー社の大型スコアを入手して、
いろんな盤を何十回聴いたかわからないので、
曲の隅々まで頭に入ってはいる。

残響豊かな音楽堂で
十代の高校生たちが
どうそれに若い命を吹き込み
演奏してくれるのかが
楽しみである。

「ドヴォ八(はち)」は、
いつも「つぼ八」を連想するが(笑)、
初版がロンドンの出版社だったことから
かつては『イギリス』という愛称があった。

初めて聴いたのは
セル盤だったが、
その第三楽章のリリカルさには
総毛立つほどに感動したのを覚えている。

後に、京都の十字屋で買った
『全集盤』でノイマンを聴いてみた。

チェコの指揮者が
チェコ・フィルを振って
自国の作曲家をやるのだから、
正調節なのかもしれないが、
なんだかカッチリして
遊びと開放感がないように感じた。

隣国ハンガリー出身のセルの方が、
クリーヴランドという米オケながら、
瑞々しく、伸びのびしていて、
歌が自然体なのである。

たしか、
『名曲名盤500』では
1位になったように思うが・・・。

(ポーランドのピアニストが
必ずしも名ショパン弾きでもない
ということもあるなぁ・・・)
と思わないでもなかった。

カラヤン/小澤の師弟コンビは
やはり、どことなく表現が似ており、
ボヘミアチックな色が
日独人の憧れ的に表現されている
感じであった。

「ラフ2」は、
アシュケナージ盤だけを
集中して聴いてアナリーゼもしてるが、
まだ、メロディーラインが
暗譜できていないので、
生演奏される金曜日までには
口ずさめるくらいには
聴き込んでおきたい。






34人もの犠牲者を出した
大放火殺人事件となった
「京アニ」事件の犯人が
精神異常歴があったというので、
久しぶりに院時代の師匠である
市橋先生の名著『心の地図』の
Schizo(統合失調症)の章を
再読してみた。

一般書だけあって、
具体的、平易に病像が記載されており、
現在、複数のケースを持っているので、
いい復習教材になってくれた。

きのうは、
夏休み前にリファー(依頼/紹介)
したケースへの
サイコセラピー研究会で
ご一緒したドクターから
ご丁寧な〔診療報告書〕が届いた。

診断の結果、
「Schizo」とのことだったので、
二学期から、また、
その対応をせねばならない。

夏休み前に、
<急性期>と思われる、
幻聴や混乱、興奮、自傷が激しく、
家の中が不穏になるほどだったので、
願わくば、
この夏休み中に
薬と休息が奏功して
<休息期>から<回復期>へと
症状が落ち着いてくれればと
ご神前でもご祈念させて頂いている。

カウンセリング中にも、
錯乱、興奮状態になったので、
その凄まじいエネルギーに
危うくこちらも呑み込まれそうになったので、
二学期以降は侵襲性の少ない
表層的アプローチでの
アート・セラピーに変えようかと
治療計画を練っている。

別ケースでは、
近々に近親者の対象喪失の危機があり、
その時のリスク・マネジメントも
担任はじめ指導委員会として
対策案を練っている。

今は、嵐のような急性期が過ぎて、
感情の起伏が乏しい休息期に在るが、
対象喪失の刺激が誘因となって
急性期に逆戻りする
「かもしれない」
という想定でいるが、
その時はまた入院対応で
医療側に任せるより仕方がない。

***

「Schizo」は、歴史的には
「クレペリン検査」で有名な
クレペリンによって「早発性痴呆」と
最初に唱えられ、後に、
ユングの師匠であるブロイラーによって
現在の「統合失調症」の概念が唱えられたので、
臨床心理学との縁も浅からぬものがある。

初期には、
やがて人格荒廃に至り、
いわゆる「廃人化」するものと
恐れられていたが、
昨今では、薬物療法と
心理社会的療法(リハビリ・プログラム)の発展で
多くの人が自立した社会生活を
送れるようになってきたのは幸いである。

統計的には、
発症後20〜30年の経過は、
回復/社会的治癒群が20〜30%、
軽症/中等症群がそれぞれ25〜30%、
重症群が15〜25%
だという。

軽症群は、
症状はあるが、
日常生活には支障をきたさないものである。

なので、
回復/社会的治癒群と合わせると、
約半数が社会的生活を
問題なく営むことができている
と考えられている。

この程度の基礎知識は、
昨今はスマホで誰でも分かるのだが、
やはり、専門家の口から
保護者に対して
「安心感・安全感・大丈夫感」と共に
丁寧に心理教育するのが
大事な治療姿勢なのである。

師の市橋先生の言葉を借りれば、
「我々は、地図とコンパスを持ってますから、
富士山の樹海でも遭難することはありません」
と、よきガイドでもあらねばならない。







天才少女

2019-05-13 07:12:00 | 
『さよなら、田中さん』を
一読して、
この子は天才だ!
と思わされた。

10万部も売れたので
その面白さが
数字でも証明された。

その“るりかちゃん”の
新刊をカミさんが
学校図書館から借りてきてくれたので、
休日を楽しく読書で過ごせた。





14歳の視点で
いろんな人物像を描いていくが、
その描写力、比喩の見事さ、
小説然としているフォルム、
洒落の利いてるとこ、
そして、現代JCの感覚などが
見事にインテグレートされている。

面白く、
気持ちを揺らしてくれ、
しかも読み味がいい。

前代未聞の小4、5、6と
連続3年「12歳の文学賞」を
受賞しているので、
さながら文学界の藤井総太である。





毎日、やろう、やろう・・・と、
思いながらも、
ついつい体調不良や億劫さのため
伸び伸びにしてきた
ライヴCD発送用の礼状書きと梱包を
朝一で半分ほど片付けた。

昨晩は、
(やりたないなぁ・・・)
という感情をメタ認知したので、
嫌々する行動はストレスとなるから、
(明日できることは、今日やるな)
という「うつ防止」の原則にのっとり、
トットと早寝した。

ご近所さんもおられるので、
それらは出勤時に
ポスティングしていくつもりである。

あと数名分残ってるが、
それらは平日休に
のんびりやろっと。






リサイタル後、
音沙汰のなかった
ハッシー(お弟子さん)から
レッスン予約のメールがきた。

ちょうど、
ひと月くらい休んだので
そろそろレッスン再開の
いい頃合である。

こないだは伴奏にまわった
「ファルーカ」と「コーヒールンバ」の
ソロをマスターしたいという。

なかなかな
意気込みを感じた。

それでこそ、
教え甲斐がある、
というものである。



長編づく

2019-02-13 11:27:00 | 
回復休暇中である。

オフ日をいいことに、
社会復帰のための
安静をかねて
日がな一日
寝転がって読書している。

職場を離れて
この十日ばかりで
ずいぶんと読んだ。

幼少期に永らく
入院生活をしてたが、
それを家に置き換えての
自宅療養生活も
十日も続くと
さすがに社会性が
喪失してくるような不安が
ないでもない。

でも、
仕事にせよ、趣味にせよ、
何事を為すにも
「体(たい)が元なり」
である。

元の気である処の
「元気」にならにゃ
家からの一歩が踏み出せぬ。

ありがたいことに、
自宅療養でも、
SNSやメールで
友人・知人から
お見舞いを頂く。

セミ・リタイアメントの身ながら、
まだ社会には
いささかの未練がある。





療養中でも、
節分飾りをいつまでも
まんまにしておくこともできず、
桃の節句の飾りに改めた。

このために、
毎年、スーパー入り口の
催し物コーナーで、
おこしの菱餅を
百数十円で買ってくる。

神棚を整理して
檜木の三宝があったので、
今年はそれに
恭しく飾ってみた。

京立ち雛は、
長男が生まれる以前に、
京都大丸の
茶道具コーナーで
買い求めたものである。





正月頃から
長編小説を読み継いでいて、
そのディテールの表現と
作家ごとのレトリックの技に
感心しながら読み漁っている。

未読のまま
書庫に入っていた
中島らもの
『永久も半ばを過ぎて』は、
詐欺師物だが
あいかわらず作者の
フェティッシュな薀蓄が散りばめられ、
ワクワクしながら
頁を繰らされた。




らもさんの代表作で、
推理作家賞受賞作
『ガダラの豚』を読みたくなり
アマゾンに古書を注文した。

これも598頁もある長編で、
目くるめくような
ファンタジックな世界観が
展開されているようで、
絶賛レヴューが多いので
楽しみである。

***

カラダは順調に
回復途上にあるが、
映画や小説の世界に
かくばかりに
ドップリ浸っていて
いいのだろうか・・・という、
社会人としてのコモンセンスも
チラリと脳裏に浮かぶが、
「老い」と「病み」には勝てぬと
「半隠遁」爺様人格が開き直っている。