イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
御父との和解
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:6-11)
---
しばしばヨハネ3:16が聖書の中の聖書と言われるが、上の聖書箇所は聖書のサマリーといえるかも知れない。
この聖書は私たちの魂が救われるための書物であり、魂の救いとは、私たちをお造りになった御父の怒りからの救いである。
御父は怒っているのである。私たちの不義のゆえに怒っている。昔も今も変わらない。
しかしその一方で、御父は造り主であるがゆえに私たちを愛していて、だからこそ怒るのであるが、その都度チャンスを与え、御子イエスの受肉という最大のチャンスを私たちに与えられた。
そして受肉した神の子が極刑の十字架に架かってその肉を処分し、3日後によみがえるというわざが行われたのである。
このわざに預かって私たちがよみがえるためには、まずイエスと同じように極刑に死ぬ必要があるのだが、私たちが死のうと思って死ぬのではなく、気づくといつの間にか細い十字架の道に入り込んでいる。
そして死んでよみがえる。
イエスはこの救いの道を切り開いたからこそ救い主なのである。
「キリストの血によって」開かれた救いの道を通り抜けてよみがえったとき、不義な私たちであっても御父は義と認めてくださる。
御父が和解してくださり、もう御父は私たちを怒らない。
これを魂の平安といっていいのだろう。もう御父からの責めはない。
---
[一版]2019年 9月22日
[二版]2021年 7月31日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
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しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:6-11)
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しばしばヨハネ3:16が聖書の中の聖書と言われるが、上の聖書箇所は聖書のサマリーといえるかも知れない。
この聖書は私たちの魂が救われるための書物であり、魂の救いとは、私たちをお造りになった御父の怒りからの救いである。
御父は怒っているのである。私たちの不義のゆえに怒っている。昔も今も変わらない。
しかしその一方で、御父は造り主であるがゆえに私たちを愛していて、だからこそ怒るのであるが、その都度チャンスを与え、御子イエスの受肉という最大のチャンスを私たちに与えられた。
そして受肉した神の子が極刑の十字架に架かってその肉を処分し、3日後によみがえるというわざが行われたのである。
このわざに預かって私たちがよみがえるためには、まずイエスと同じように極刑に死ぬ必要があるのだが、私たちが死のうと思って死ぬのではなく、気づくといつの間にか細い十字架の道に入り込んでいる。
そして死んでよみがえる。
イエスはこの救いの道を切り開いたからこそ救い主なのである。
「キリストの血によって」開かれた救いの道を通り抜けてよみがえったとき、不義な私たちであっても御父は義と認めてくださる。
御父が和解してくださり、もう御父は私たちを怒らない。
これを魂の平安といっていいのだろう。もう御父からの責めはない。
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[一版]2019年 9月22日
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