律法と信仰による義

 「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3:31)

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 もし行ないによって義を確立するのであれば、割礼をしないことは不義に当たる。分かりがいい。
 では、割礼をしないことは、律法を確立するであろうか、それともそれを貶めるだろうか。
 イエス・キリストの十字架の死と復活以来、これは頭の上では分からなくなってくる。

 行いによる義とは自力で義をつかみ取ろうとするものであるが、信仰による義はそうではない。
 というのは、信仰というのは自分が力ずくで獲得するものではなく、死んでよみがえったイエスによって信じさせられるものだからである。
 信じさせられる以前には、自力ではどうやっても神の基準である律法には達することができず腹の底から罪意識が湧き出てきて、それにもかかわらず更に罪を重ねてのたうち回る過程がある。ここに養育係としての律法の役割がある。
 そうして極度の苦しみの果てに、復活のイエスが私たちに出会ってくださるのである。
 イエスが歩んだあの十字架への道は、のちに私たちがこのように通り抜けるために切り開いてくださったのだ。

 割礼をしないというか割礼をできずに律法を守れないところには、このように罪意識が湧いてくる。
 だから律法を守れないことを自覚することが救いへの第一歩になる。
 そして、やがて訪れるイエスとの出会いによって御父から義と認められ、これによって律法はその人の中でかえって確立される。すなわち聖霊の内住である。
 一方で、律法を遵守していることに疑いを持たないパリサイ人には、この罪意識が湧く余地がない。ここが決定的な違いなのである。

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[一版]2017年10月 1日
[二版]2019年 9月 8日
[三版]2021年 7月17日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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