極端なまでに非合理なことが死人を生かす

 「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:19-25)

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 「およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認め」るアブラハムのこの認識は合理的な思考に基づいている。
 しかしそれでもアブラハムは「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」という非合理を貫き通す。
 この合理的か非合理的かということについて、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(ヨハネ20:25)とトマスが言うのは、証拠に基づく判断を行いたいという観念的な合理性であるから、「決して信じません」という信心の話にはつながらないのだが、この不整合にも人間の非合理さが顕れている。希代の芸術家である岡本太郎は「”生きる” ということの非合理」と書いている(「自分の中に毒を持て」, p.220)。

 たしかに人間は合理的に考えるということができ、そのことによって近代の物質的繁栄がもたらされた。自然科学は輝かしい近代の大看板であり続けている。
 人体のはたらきはその自然科学によってかなり分かってきて、私たちは治療を受けることを通して合理性の恩恵を受けている。
 ところが、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出る」(ヨハネ7:38)ようになることについて、つまり生ける死人をよみがえらせることについては、我々の合理的思考では歯が立たない。
 彼ら生ける死人にとって最も大切なことは、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」という非合理、それも極端なまでの非合理なのである。
 そうしてよみがえった人は、いのちあふれる生を生きるようになる。
 このいのちとは、いつのまに塞がれていた水源のその塞ぎをイエスが取り去って勢いよくほとばしるようなものである。
 詩篇の150の詩にあきらかなように、うれしいことでもつらいことでも生きる実感はどちらも大きく、その先には生きる歓びが湧き上がる。
 私は日頃は理屈を突き詰める仕事をしているが、このほとばしりこそ生きるということと確信している。

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 健やかな一日をお祈りします!

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