私の罪深さに表れる神の栄光

 「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
 「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」(ローマ3:7-8)

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 罪深い自分はその罪深さのゆえに人を傷つけ腹立たせることなど数知れない。
 赦されたにもかかわらず人を許すことなどほとんどない。
 そのような自分と対比すれば神の栄光はよりまぶしく見える。
 しかし、そう見えるだけで、神の栄光は自分によって貶められる。
 なぜなら自分はこの御父によって造られそしてイエスのゆえにこの御父と和解できたにもかかわらず、肉を持つ自分のこの有様は御父の顔に泥を塗っているようなものではないか。
 それにもかかわらず御父は罪深い私を赦してくださるのであるから、ここにこそ御父の栄光が輝いている。

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 健やかな一日をお祈りします!

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