信じるとは

 「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ4:5)

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 信じるとはどういうことなのだろう。
 自分は信じていると思って「口で告白」すること(ローマ10:10)は簡単なことだ。
 しかしこれは、なんでもない石ころに金メッキを被せて、そうしてこれは金塊だと思い込むのと同じ事で、自己啓発と変わるところがない。
 なにかがあればメッキははがれて地の石ころの表面が顕わになる(参/マタイ13:20-21)。
 これを言い換えると、自分は信じているのだと自分自身に言い聞かせているようなものだ。

 しかし、それではどうすれば信じるようになるのだろうか。自分の力でできるのだろうか。
 それは、自分で信じるのではなく、救い主イエスによって力ずくで信じさせられるのである。
 公生涯でのイエスが全世界に示した神の愛とは、十字架の死とよみがえりに集約される。
 私たちは気づくとイエスによってこの狭き道に導かれ、今までもこれからもないほどの苦しみの果てに死に、そして復活のイエスが出会ってくださりよみがえる。
 このとき、罪深い私たちをそのままで義と認め、聖霊様を住まわせて私たちの内側に律法を置いてくださる。
 まさに石ころが金塊そのものに化けたのだ。深くえぐられたとしても表出した面はやはり金であり、どこまでも金なのだ。

 ときおり信仰が増したというようなことを耳にするが、このように、信仰はあるかないかの2状態しかない。
 そして、この状態を変えるのは、私たち自身の力ではなくイエスなのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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