盲目が見え、見える者が盲目に

 「そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:39-41)

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 「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる」。

 イエスによる救いとは、見えなかったものが見えるようになることだ。
 イエスを救い主と見ることのできなかった人が、イエスが救い主であったとはっきり見えるようになる、これが救いである。
 十字架と復活が、自分のこととしてはっきりと見えてくる。

 自分は盲目である、無力だ、そうわかることに救いの第一歩がある。
 そのようにわかるための「てこ」が、神の秩序・律法である。
 人間の肉は、たとえば十戒のたった一つすら守ることができない、イエスが教えてくれるのはこのことだ。
 ここに思い至った人は、もはや何もできなくなり先も見えなくなる。
 だが、この地点こそ救いの第一歩なのである。

 一方、私は見える、という人には、このようなとっかかりがない。
 だから救いについてまったくの盲目となってしまうのであろう。

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