系図のある神

 「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
  ……
 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」
(マタイ1:1,18)

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 「イエス・キリストの系図」。
 キリストは神であるにも拘わらず、アブラハムの子孫、またダビデの子孫として、脈々とした肉のつながりの中、マリヤからお生まれになった。
 肉を持った神、それも罪深い系図から出た肉を持つ神なのである。
 しかし、イエス・キリストご自身の肉には、この罪を引き継いではいない。
 処女マリヤから生まれたことが、そのことをほのめかしている。

 罪深い人間の肉と同じ肉をイエスがまとってこの世に来られた。
 このイエスは、私たちの苦しみ悲しみを、ご自身の肉も体験されたので、深く共感することができる。
 そして何より、このイエスは、まとった罪なき肉を処罰して、信じる者の罪深い肉を解放するために、極刑の十字架に架かる。
 そうなるために、キリスト・イエスは、天から下ってきたとか、そのようにして世に来られたのではなくて、罪深い系図を通してひとりの処女からおぎゃあと生まれてこられた。

 仮にキリストが肉を持っていなかったとしたら、福音には何の意味も力も救いもない。
 むしろ、まとった肉を十字架につけて罪深い肉を救うために、処女から生まれたのである。

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