イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
歯車
「私は身を横たえて、眠る。
私はまた目をさます。
主がささえてくださるから。」(詩3:5)
---
「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」。
その営みはあたかも機械の歯車かのようだ。
あわてずさわがず、声も出さず主張もしない。
淡々とおんなじ速度で隣の歯車とかみ合いつつ、ごく自然と回り続ける。
隣の歯車に歩調を乱されることも、ない。
「主がささえてくださるから」。
「この歯車」がないと、多分どこかしらが困り果てるだろう。
けれども逆に、「この歯車」があるからといって「歯車さん、ありがとう」とありがたがられることは、まったくない。
暗黙の内に、「そこ」できちんと役割を果たしてよしとされる、「この歯車」。
「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」、その繰り返し。
「主がささえてくださるから」成り立つ、歯車の動きのような営みだ。
そして週に一度、主がグリスを丁寧に塗り込んでくれる。
---
[注記]
本日の記事は、
[一版]2007年 2月17日
[二版]2007年 9月23日
[三版]2008年11月 8日
[四版]今回
若干の筆を入れました。
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私はまた目をさます。
主がささえてくださるから。」(詩3:5)
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「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」。
その営みはあたかも機械の歯車かのようだ。
あわてずさわがず、声も出さず主張もしない。
淡々とおんなじ速度で隣の歯車とかみ合いつつ、ごく自然と回り続ける。
隣の歯車に歩調を乱されることも、ない。
「主がささえてくださるから」。
「この歯車」がないと、多分どこかしらが困り果てるだろう。
けれども逆に、「この歯車」があるからといって「歯車さん、ありがとう」とありがたがられることは、まったくない。
暗黙の内に、「そこ」できちんと役割を果たしてよしとされる、「この歯車」。
「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」、その繰り返し。
「主がささえてくださるから」成り立つ、歯車の動きのような営みだ。
そして週に一度、主がグリスを丁寧に塗り込んでくれる。
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[注記]
本日の記事は、
[一版]2007年 2月17日
[二版]2007年 9月23日
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