奇蹟の目的

 「それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。
 すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」(マタイ8:28-29)

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 マタイ8章は、数々の奇蹟をなすイエスについてまとめられている。
 病を癒し悪霊を追い出す。暴風雨を大凪(おおなぎ)にする。

 この万物は、神がお造りになった。
 病が癒え悪霊が出て行くのは、病も悪霊も、この万物の主である神、そして神の子イエスには従うからではないかという気がする。天候もイエスには従順である。
 ところが、この万物の主に従わないのがいる。アダムの肉を持つ我々人間がそうである。
 人間は、この御神との関係性から外れ、ソドムやゴモラをはじめ、しばしば神の怒りを買っていた。
 人間そのものが癒されることはなかったし、人間そのものが凪ぐようにされることもなかった。

 ではイエスが病を癒し悪霊を追い出し、湖を鎮めたのは、何のためだろうか。
 病を癒すことが目的であったなら、医者の看板をあげればよかった。実は若い頃の私は、浅はかにもそう思っていた。
 そうではなく、今ここに神の子がいるのだ、ということを分かってもらうことこそが目的だったはずだ。
 人間そのものを癒して神との和解を果たし、その人を凪にする、その救い主がここにいるということを分かってもらうための手段として、病を癒したのではないだろうか。

 マタイ福音書に出てくるほとんどの人は、イエスを腕利きの町医者であるかのようにとらえていた。彼らはイエスが誰かを、わからなかったのである。
 このイエスがどういう存在であるかを分かることは、救われるために大切なことだ。
 勉強すれば分かるようになるわけではない。
 イエスが戸を叩いて訪れて出会ったときに、全てのことが分かるのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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