生きたことば

 「それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
 議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。
 だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」(ヨハネ7:45-49)

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 もともとはイエスを捕らえるために、役人たちはパリサイ人たちから遣わされた。
 このパリサイ人たちは、日頃、律法を教える立場にある。
 イエスを捕らえなかった役人たちはこのパリサイ人に告げる。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」

 パリサイ人の教えに接し続けてきた人々がこのように言うのであるから、少なくとも、イエスの話がパリサイ人の話とは違ったのである。
 何が違ったのだろか。
 パリサイ人の話というのは、教わったことを教えているだけで、自分のものでもなければ自分のことばでもなかったのだろうと思われる。
 しかしイエスはイエス自身の話をイエス自身のことばで話している。
 何を言っているかという内容以上に、その生きた言葉そのものが、役人たちの心証を変えた。

 このように、ことばには生きたことばと死んだことばがある。
 生きたことばは、上のように役人たちを変える力がある。
 では、この生きたことばは、私たちのどこから出てくるのだろう。
 「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:20)とあるとおりで、この御霊に生きるためにはまずキリストに死ぬ必要がある。

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[一版]2020年10月 4日
[二版]2023年 1月 2日

 健やかな一日をお祈りします!

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