救いは恵みにより、恵みとは風が吹いてくるようなもの

 「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:1-3)

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 生まれつきの盲人を見かけた一行。

 「神のわざがこの人に現われるためです。」とイエスは宣言して、この人の盲目を癒すのであるが、ほかにも病気を抱えた人は周囲に大勢いただろう。
 なぜ、イエスは特段この人を癒したのであろうか。

 それは、イエスが彼をいやそうと思ったから、これが理由のすべてである。
 この盲目の人が誰より気の毒そうだったとか、そういうことではなく、たまたま、この人をいやしてあげようとイエスが感じたのである。
 そして、この人、であることに、理由はない。
 この人の病状の重さも、生まれつきであったことも、理由ではない。
 風が吹いてくることに理由はないのと同じである。

 だから、神の救いは因果関係ではない。
 善行をどれだけ積んだかとか、断食祈祷をしただとか、施しをしただとか、そういうことが直ちに恵みにつながるわけではない。
 また、本人に罪があるとしても、両親に罪があるとしても、それらが恵まれないことにつながるわけでもない。
 そのような因果関係とは関係がないがゆえに、逆に、誰もが救いに預かる可能性を秘めている。それだから恵みなのである。

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[一版]2014年 8月 5日
[二版]2017年 5月 4日
[三版]2020年11月 8日
[四版]2023年 1月22日

 健やかな一日をお祈りします!

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