イエスが与える自由

 「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:31-34)

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 自分語りになるのだが、私は必要以上に緊張している時期が長かった。その緊張がほぐれてからそうであったことに後から気づいたのだが、この緊張がほぐれてくると、人前でもいきいきとした会話ができるようになり、日ごろ書く文章ものびやかになっていった。それ以前は頭にも上らなかった四字熟語やことわざの類いがぽんぽんと出てくるようになった。駄洒落もよく思いつくようになったが、これはいい顔をされないので口から出すのを止めている。
 つまり、緊張感が解けて私は自由になったのである。私は、というよりかは、私の内面が自由になった。上の聖書箇所に「決してだれの奴隷になったこともありません」とイエスに言った人がいるが、制度その他の外形的な事柄がここで問題にされているのではない。
 それにしても、この内面の自由は何によってもたらされるのであろうか。それはイエスの言う「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」に尽きてしまう。十字架の死と復活がもたらす御父との和解によって罪赦され、罪意識に責められることがたちどころにしてなくなるのである。
 イエスの周囲の人々は、イエスに外形的な自由の成就を期待していたかもしれない。当時のメシア待望ということも、もしかするとそのメシアによるローマの圧政からの解放を求めていたからかもしれない。
 しかしイエスが為そうとしているのは、がんじがらめになってしまっているひとりひとりの内面が自由になって潤うようになることであり、言い換えると生ける水の川が流れる(ヨハネ7:38)ようになることなのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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