追い出された人も招待される時が来るかも

 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
……
 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:2-3,7-14)

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 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないとイエスは言う。
 上のたとえでは礼服を着ていない者、また、ほかのたとえでは、『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』(マタイ21:38)と神を畏れず悪知恵が先に働く農夫なども、選ばれる者からは外れるのではないか。
 しかし話はそう単純ではない。
 こういう人々は大抵どこかでけつまずくから、そのときに自分自身の罪に気づいたら、この時点で彼らは招待されたのである。
 神の律法が人に罪を意識させ、罪の意識の苦しみが救いへと向かわせる。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。」(ガラテヤ3:24)とあるとおりである。
 だから、むしろ礼服を着込んでぼんやり着席しているだけの人々の方が、もしかすると招待されただけなのかもしれない。

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 健やかな一日をお祈りします!

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