私たち神のものが神に返る

 「それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
 イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。
 納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。
 そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」
 彼らは、「カイザルのです。」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:17-21)

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 イエスが見事に切り返す場面であるが、ここでイエスは「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」と言っている。
 世俗のものと神のものとを切り離した上で、神のものは神のものに返すのである。
 ここで、神のものとはなんであろう。
 アベルやカインが神に捧げた捧げ物の類いであろうか。
 それではアベルとは何であろう、カインとは何であろう。
 彼ら自身が神のものなのである。
 追放されたアダムの子孫である私たちは、神のものにもかかわらず神を見失ってしまっている。

 イエスは、そのような私たちが神のもとへと返ることができるようにしてくれた。
 すなわち、十字架の死と復活である。
 イエスの切り拓いた狭い道を歩んでこの死と復活に預かり、御父との和解が叶う。
 このとき、神のものである私たちは神に返るのである。

 それにしても、パリサイ人たちは「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか」などという、大切なことからかけ離れたことばかりやっていたのであろうか。

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 健やかな一日をお祈りします!

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