イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
夕方まで粘ってとうとう声を掛けられた
「また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』」(マタイ20:6-12)
---
9時に雇われた人も5時に雇われた人も、同じ1デナリが報酬として与えられる。
これは、罪の赦しとか神との和解、すなわち救いについては、救われたか、まだ救われていないかという2つの状態だけだからである。
言い換えると、信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
信仰が増すとか、信仰の成長ということは、ない。
1デナリを与えられたか、まだ与えられていないかの2状態だけである。
その信仰は恵みにより、行ないにはよらない。
だから長時間働いているかということよりも、主人の声に応じたということが問われている。
5時まで仕事を探し続けた人々は、忍耐強かった。
もう日が暮れようとしている5時に遂に声をかけられた。ついに恵まれたのだ。
救いを与えられるのにもっとも必要なものがあるとすれば、この恵みを待ち続ける忍耐ではないだろうか。
イエスは、求める者の戸の前に立ってたたく(黙3:20)。
私たちは、いつイエスが来られるかを忍耐して待ち続けるのである。
---
[一版]2013年12月15日
[二版]2016年 7月18日
[三版]2018年 5月20日
[四版]2022年 7月10日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
にほんブログ村
彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』」(マタイ20:6-12)
---
9時に雇われた人も5時に雇われた人も、同じ1デナリが報酬として与えられる。
これは、罪の赦しとか神との和解、すなわち救いについては、救われたか、まだ救われていないかという2つの状態だけだからである。
言い換えると、信仰とは、あるかないかのどちらかしかない。
信仰が増すとか、信仰の成長ということは、ない。
1デナリを与えられたか、まだ与えられていないかの2状態だけである。
その信仰は恵みにより、行ないにはよらない。
だから長時間働いているかということよりも、主人の声に応じたということが問われている。
5時まで仕事を探し続けた人々は、忍耐強かった。
もう日が暮れようとしている5時に遂に声をかけられた。ついに恵まれたのだ。
救いを与えられるのにもっとも必要なものがあるとすれば、この恵みを待ち続ける忍耐ではないだろうか。
イエスは、求める者の戸の前に立ってたたく(黙3:20)。
私たちは、いつイエスが来られるかを忍耐して待ち続けるのである。
---
[一版]2013年12月15日
[二版]2016年 7月18日
[三版]2018年 5月20日
[四版]2022年 7月10日(本日)
健やかな一日をお祈りします!
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )