ダブルスタンダード

 「モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。――ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。――それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。
 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(ヨハネ7:22-24)

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 イエスの主張は、こうだ。
 あなたがたは律法を遵守するためには、たとえ安息日であっても割礼という労働をしている。
 おなじように私(イエス)が安息日に「人の全身をすこやかに」するという労働をすると、なぜ腹を立てるのか。
 それではダブルスタンダードではないのか。

 神の律法はもちろん、どの人にも等しい。
 しかし、それを適用する人間の側に明らかな恣意があるため、上のようなあからさまなダブルスタンダードになってしまう。これは古今東西を問わないことと思われ、現代日本でもしばしば見受けられる。
 声の大きい者がこの世の勝者なのであり、もはや筋論など意味をなさない。「十字架につけろ」という、ピラトも挫けたあの狂騒もそうだ。
 そうすると、イエスがダブルスタンダードを訴えることに果たして意味はあるのだろうか。
 大いにある。
 御子イエスは、世の人々の不正、恣意を明確に示したのである。仮に私たち普通の人が同じ事を言ったとしたら、石を投げつけられるだけだろう。

 そうすると、どういうことがいえるのだろうか。
 この世に身を置き日々奮闘する私たちは、様々なダブルスタンダード、恣意や不正に遭遇し続けている。
 そしてそのこと自体に私たちは無力なのであるが、私たちの味わうこの理不尽さは御子イエスも味わい、表だって抗議していたのである。
 そのイエスは「世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。」(ヨハネ7:7)と、言っているので、世とはそういうものなのだろう。
 恣意を恣意として明らかにしたイエスと同様に、私たちも世の恣意を恣意として明確に意識することで、私たちがイエスの側にあって世の側にはいないことを確認できる。

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[一版]2014年 7月13日
[二版]2018年12月28日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!
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