イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
いのちの光
「 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
・・・・
わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」(ヨハネ8:12,26)
---
イエスは世の光である。
なぜなら、「わたしを遣わした方は真実」だからで、言い換えると、御父の子としての光である。
このイエスには、自身を遣わした御父がいつも一緒にいる。
一方、「あなたがた」に対しては、イエスは「言うべきこと、さばくべきことがたくさんあ」り、つまり神に裁かれる存在であると言う。
これを言い換えると、「あなたがた」は罪の中におり罪の中で死ぬのであり(24節)、このことをイエスは「やみ」と言っている。御父の怒りの下にあってこの御父と断絶しているからである。
ここで、「あなたがた」とは誰か。
文脈からすると、イエスとやりとりしているパリサイ人たちであるが、もっと広げて私たちひとりひとりのことである。
御父はこのような私たちの「やみ」を照らす光として御子を遣わした。多くの人の内に「いのちの光」を灯したいのである。つまり聖霊の内住のことだ。
私たちの内に聖霊がいるというのは、御子に御父があることと相似形である。
イエスが「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」(ヨハネ7:16)と言うのと同じく、内住の聖霊はわたしたちをそっと教え導く。
そしてそうこうしているうちに、自分が世の原理から離れて神の原理で生きていることに、あるとき私たちは気付かされる。
ちなみに、人となりが変わるわけではない。どうしようもない自分が神の原理で動くのである。
どうしようもない奴が神の原理で動き、このどうしようもない奴の内に神が垣間見えるとしたら、御父の素晴らしさがより多く現れるのであるから、御父の知恵とはなんと深いことだろう。
---
健やかな一日をお祈りします!
・・・・
わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」(ヨハネ8:12,26)
---
イエスは世の光である。
なぜなら、「わたしを遣わした方は真実」だからで、言い換えると、御父の子としての光である。
このイエスには、自身を遣わした御父がいつも一緒にいる。
一方、「あなたがた」に対しては、イエスは「言うべきこと、さばくべきことがたくさんあ」り、つまり神に裁かれる存在であると言う。
これを言い換えると、「あなたがた」は罪の中におり罪の中で死ぬのであり(24節)、このことをイエスは「やみ」と言っている。御父の怒りの下にあってこの御父と断絶しているからである。
ここで、「あなたがた」とは誰か。
文脈からすると、イエスとやりとりしているパリサイ人たちであるが、もっと広げて私たちひとりひとりのことである。
御父はこのような私たちの「やみ」を照らす光として御子を遣わした。多くの人の内に「いのちの光」を灯したいのである。つまり聖霊の内住のことだ。
私たちの内に聖霊がいるというのは、御子に御父があることと相似形である。
イエスが「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」(ヨハネ7:16)と言うのと同じく、内住の聖霊はわたしたちをそっと教え導く。
そしてそうこうしているうちに、自分が世の原理から離れて神の原理で生きていることに、あるとき私たちは気付かされる。
ちなみに、人となりが変わるわけではない。どうしようもない自分が神の原理で動くのである。
どうしようもない奴が神の原理で動き、このどうしようもない奴の内に神が垣間見えるとしたら、御父の素晴らしさがより多く現れるのであるから、御父の知恵とはなんと深いことだろう。
---
健やかな一日をお祈りします!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )