『形』について

 「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。」(ローマ14:1-2)

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 ロマ書14章で書かれている食べ物云々のことは、時代背景が分からないのでなんともいいようがない。当時は大問題だったのだろう。

 ここで「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。」とあるが、信仰とはあるかないかのどちらかで、信仰が弱いという状態はない。
 いいかえると、レベルの高低はなく、イエスによって十字架の死と復活に預かったかそうでないか、その2つしかない。

 「弱い人は野菜よりほかには食べません」とあるが、この「弱い人」は形をなぞっているにすぎない。
 ほかにも、主の祈り(マタイ6:9-13)をそのまま暗唱するというのも、個人的には形だけのものと思っている。文脈からいって(同6:5-8)、人に見せびらかすことなく簡潔手短に祈りを捧げれば必要十分という趣旨ではないだろうか。

 では、そのような形だけの人を形だけだとさばいていいのかというと、それは逆で、かえってさらに受け入れる必要がある。
 なぜかというと、主イエスの恵みは、どの人にも、この形だけの人にも降り注ぎうるので、つまづきを与えるべきではないのである。
 この、救いを求めている「弱い人」が信仰に預かるように祈るのが信仰というもので、一体、なぜこの人をさばかなくてはならないのだろう。
 救われるべき人が一人でも多く救われることは、それこそ御心というものだ。

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