『いのち』の触媒

 「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)

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 ロマ書の「おこごと」より。
 ちなみに、「おこごと」を馬鹿にしているわけではない。
 聖書のことばは、字面とは全く異なる意味で働くことがあるのだから。
 だから、聖書の言葉は、むしろ霊的なものなのである。

 「昼間らしい、正しい生き方」とは、キリストから与えられた「いのち」の歩み。
 なので、この言葉を読んだだけでは、この「正しい生き方」をやってみようなどということは到底できない。
 神が働いて「いのち」が与えられたならば、気付くとそういう生活ができている、そういう類のものだろう。
 ここでいう「正しい」は、神にとっての正しさであり、この世にとっての正しさではない。

 ところで、上の14節は、煩悶きわまったアウグスティヌスが、この言葉に触れて回心を果たした、そういう言葉である。
 アウグスティヌスにとっては、ロマ13:14が「いのち」の触媒だった。
 触媒は、その人その人によって全く異なり、予想のしようがない。
 聖書のこんな「おこごと」の箇所からでも、アウグスティヌスは煩悶から解放されてよみがえってしまうのだ。聖書の言葉は、霊的なのだ。

 アウグスティヌスの煩悶というのは、十字架の上で古い自分に死にゆく苦しみである。
 そして、みことばという触媒によって新しくよみがえって「いのち」のうちを歩む。
 死なせるのもキリストならば、新しく生かすのもキリストである。
 このときに、今まで読んでいた聖書が、全く異なるきらめきを放って迫ってくる。

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[一版]2008年10月26日
[二版]2015年 8月 2日(本日)

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