十字架に架かるということ

 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(ローマ8:1-3)

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 イエスの十字架とはなにかというと、「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰された」ということに尽きる。

 この十字架のイエス・キリストは、初穂であり、救いへの道を切り開いた存在なのである。
 ということは、キリストに希望を置く人もまた、このイエスに続いて十字架に架かることになる。そこを通って、「いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放」する。
 自分から架かりにいくのではない。
 イエスによって架けられるのであり、信仰は自力で獲得するものではなく、イエスによって力づくで信仰させられるのである。
 そうであれば、信仰というのはあるかないかのどちらかしかなく、たとえば30%の信仰というようなことはありえない。

 だから、祈るといえば、この信仰を祈り求めるのである。

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