私たちは皆死罪に当たる

 「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」(ローマ1:28-32)

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 不義とされるところのない義人、善と善意に満ちた人。
 ねたまず怒らず、人を裏切ることがなく陰口も全く言わない。
 他人を誹謗中傷せず神を愛し、全ての人を愛し、謙遜な者。
 悪に走ることがなく、親を敬う。
 わきまえがあり、必ず約束は守り、情け深く慈愛に満ちた者。
 そういう完全な存在がいるとすれば、ただおひとり、御父だけだ。
 御子イエスは仰る。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)
 そうでないと、御父によって死罪に処せられてしまうのだ。

 しかし、この死罪こそが私たちを救った。
 すなわち、極刑の十字架である。
 私たちは重罪人として、極刑に付されて死んだ身であった。
 そして、恵みによって御子同様に復活し、永遠のいのちをいただいた。
 義人になるのではない。義人でないのは相変わらずであるにもかかわらず、義と認められる。
 完全からほど遠いにも拘わらず、御父から完全とみなされる。

 では、私たちはそもそも、どのようにして死罪に処せられたのであろうか。
 それは、神の律法が私たちの悪を暴くので、その律法を完全に遵守しようとして悪から逃れようとするが、それができないからである。
 律法を遵守しようとすればするほど、この神の律法を何一つ守ることのできない自分というものに、否応なく気付く。
 何一つ守れないのであるから重罪、死罪にあたり、極刑に死ぬほかなくなる。

 このように、イエスの救いは、律法をてこに行われている。
 昔、律法主義というレッテルをよく聞いたが、律法を否むということは、それを定めた御父を否み、十字架に死んでよみがえったイエスの救済のわざをも否定することである。

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