「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか」

 「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、
 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、
 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、
 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。
 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。」(ローマ2:17-23)

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 パウロの放つ嫌み。

 律法は素晴らしいものだと、少なからぬ人々が思っている。私もその一人だ。
 しかし彼らは、自分たちは他の人々と違って「律法を持つことに安んじ」てしまっているのだ。
 律法を奉じている俺はエラい、と。
 このような人たちは、「盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師」になりたがる。

 しかし、これこそ、盲人が盲人を導く形になってしまっている。
 「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか」、これが全てである。
 律法は、自らの救いのための養育係(参/ガラテヤ3:24)なのであるから、もっぱら自分に適用するためのものである。
 そのことに気付かないと、盲人になってしまう。

 さらに言えば、律法とは、自分自身を裁くためのものである。
 この律法によって初めて、自分が神の御前に罪を犯していることを理解せざるを得なくなる。
 ここがはじまりであり、律法の養育係たる所以である。
 その罪から脱するべく律法を遵守しようとしても、これがどうにもできない。
 そうして、その人は重罪人として十字架に架けられて死ぬ。
 これが、イエスが切り開いた救いの道であり、死んだ後三日目によみがえる。
 そのとき、この罪人は、罪人でありながら罪はないとみなされる。

 だから、律法を他人に押しつけるというのは、まったくもって大きな誤りである。
 律法は、他人を裁くためのルールブックなどではない。
 自分に課して初めて、律法は意味を持つ。
 以上のことは律法に限ったことではなく、聖書全体についていえることである。
 なぜなら、聖書では御父-御子-私の関係が全てだからである(参/ヨハネ17章)。

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