聖書をどう扱うか

 「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、
  同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」(ローマ1:26-28)

---

 もうずいぶんと前、キリスト教出版社が出しているマンガを読んだことがある。
 身近にゲイの人がいるんだが、この人がとてもいい人なのだという。
 いい人なのだが、なにより聖書には上のように書いてある。この、ある種の矛盾を、どう捉えたらいいのだろう、大略そのようなあらすじだったと記憶している。

 しかし、ゲイの存在と、聖書にどのように書いてあるかと言うことは、この著者自身には何の関係があるのだろうか。なぜなら、この著者自身はゲイではなく、他人様のことなのだ。
 その著者が、他人様についてゲイなのにいい人だけれど聖書には云々というのは、聖書を基準にして他人を見積もっているように思える。
 聖書とは、他人に適用するためのルールブックなのだろうか。

 そうではなく、聖書はもっぱら自分にあてはめる書物である。
 私たち自身が罪人であるということを、神の秩序である律法によって私たちは認めざるを得なくなる。
 私たちは、実に罪人だったのだ。神の怒りを買う存在だったとは。このことに気付くことが、救いのきっかけとなる。
 この律法を守ろうともがけばもがくほど、ますますそれを守りようもないことに絶望する。
 そして、イエスの十字架とそれに続く三日目の復活が聖書に書かれているのは、救いの道筋を明らかにするためである。
 書かれているとおりに、私たちも大罪人として極刑に死んで、復活し、そうして救われる。そのとき、神との関係が修復するのである。
 そういうわけで、聖書はどこまでいっても自分の救済のための書物なのである。

 そのことからすると、仮に自分がゲイであるとしても、上の聖書箇所によって罪の苦痛が自覚されるのであれば、かえって救いに近づくに違いない。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )