ヒューマニズムと聖書

 「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。
 互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。
 わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。」(ヨハネ5:43-45)

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 上の聖句にある「栄誉」は、「名誉」または「評判」とも訳せるとのこと(新改訳第二版注釈より)。

 ヒューマニズムというものがある。
 人間をすばらしい存在ととらえ、互いに評価し合う。
 人間を一面的でなく多面的にとらえて良い面も醜い面もありのままに認めるというのならばまだ分かるのだが、ヒューマニズムは良い面だけを見て、人間の全存在に信頼を置こうとする。
 穿った見方をすれば、彼らは自分の内側にある醜い面、嫌な面から無意識に目をそらしているのかもしれない。多分そうだろう。

 このヒューマニズム観は、聖書からは最も遠い。
 なぜなら、聖書は人間を良き存在などとは見ていないからだ。
 むしろ逆で、アダムの違反以来、神の御前に罪深い存在として人間は絶えず糾弾され続ける。
 私たちは、律法を授かったモーセから、その律法によって絶えず訴えられ続けているのである。
 それは、私たちがどうやっても神の律法を守り通すことができないからだ。
 その罪の苦しみ。自分の内面の醜さを、律法という鏡越しに嫌と言うほど見なくてはならない。
 ここからの救いをもたらしてくれるのが、救世主イエス・キリストである。

 自分の内面から目をそらすか、それとも自分の内面をみつめてゆくか。大まかには、その違いである。
 どちらの方が心豊かに歩むことができるだろうか。
 それで私は、救ってくださったイエス・キリストに感謝しているのである。

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