信じさせられる

 「また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。
 また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。
 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:37-40)

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 イエスは「父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。」と言っている。

 信仰とは、こちらが能動的に動いて得る類のものではない。
 信じさせられて身に付いたものである。
 では、どのように信じさせられるのであろう。
 十字架に架かり三日目に復活したイエスの御声を聞き御姿を見て、それで信じざるを得なくなる。

 そのような神との出会いは、もっぱら聖書のみことばを介して行われる。
 聖書を調べても調べても、その字面を見ている限りはイエスについての証言を見いだすことはまったく出来ない。
 ところがあるとき、みことばが字面の意味をはるかに超えて入ってくる。
 向こうからやってくるのである。
 今までみことばは、外側から付着させるメッキのようにすぐ剥離してしまうものであったのが、このときにみことばは地金そのものになる。地の部分が変わるのであり、「そのみことばをあなたがたのうちにとどめて」いるとは、この後者のことをいう。

 このようにイエスと出会うためには、「いのちを得るためにわたしのもとに来」ること、つまり求めることが第一歩とある。

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