アダムを追い込む律法

 「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ローマ7:5-6)

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 私が聖書を手にしてまもなく、山上の説教での次の聖句を知った。

 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)

 そのころにたまたま入ったコンビニのレジにいた若い女性が非常に可愛らしく思え、と同時に、「すでに心の中で姦淫を犯した」が思い出された。
 そのとき私の心の中には、レジの女性を可愛いと思ってしまうということ自体がいけないことなのかという不安がふつふつと湧き上がっていった。対人恐怖症の始まりである。
 もし私が聖書を、律法を知らなかったならば、そのように不安に陥ること自体、なかったはずだ。可愛い女の子ラッキー、くらいで済んだと思う。
 このことは、知って間もない律法が私の肉の罪を容赦なく指弾したということにほかならない。

 律法は、このようにアダムの肉の罪をその人自身に気付かせる役割がある。
 イエスの山上の説教に至っては、その律法は突き詰められ、律法を遵守することなど誰一人できない、ということが説いている。上の「姦淫」の箇所もそうだ。
 そうして律法群は、アダムの肉を死へと追いやってゆく。

 ではなぜ、律法群はアダムを死へと追いやるのだろうか。
 それは正に、死に至らしめるが為である。
 イエスという初穂は、自らの肉を十字架に架けて処分し、三日目に御父によってよみがえられた。
 そのイエスの歩みと同様に、律法が私たちの肉を殺し、キリストが私たちをよみがえさせる。
 よみがえらせるためには、まず死ぬ必要があり、よみがえったとき、私たちは「私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだ」、「新しい御霊によって仕えている」こととなる。
 いいかえると、「いのち」に生きるためには、一度は律法という神の掟によって死ななくてはならないのであり、その道を最初に切り開いたのがキリストである。

 今も律法は厳然と存在するが、私たちは既に律法から解放されている。
 というのは、もう既に、律法に死んでいるからだ。
 今はキリストが下さった「いのち」に生きている。
 ちなみに私は今も対人恐怖症がきれいに治癒したわけではないが、これは言ってみれば「とげ」(2コリント12:7)のようなものであり、そんなものとは比べものにならないものをいただいたと思っている。

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[付記]
 本日の記事は、2009年10月18日付記事に大幅な修正を施したものです。

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