罪について

(1)
 「『原罪とは何ですか』という便りが殺到し、……。私は『人間が生まれながらにして持っている罪のことです』などと答えたりしたが、……」( P.24 )。
(三浦綾子「光あるうちに」より)

(2)
上の部
 悲嘆
 内心の分離 (英語は略す)
 脱罪術 その一 リバイバル
 脱罪術 その二 学問
 脱罪術 その三 自然の研究
 脱罪術 その四 慈善事業
 脱罪術 その五 神学研究
 神学校
 忘罪術 その一 ホーム
 忘罪術 その二 利欲主義 (英語は略す)
 忘罪術 その三 オプティミズム(楽天教) (小見出しを略す)
下の部
 罪の原理
 喜びの訪れ
 信仰の解
 楽園の回復 (英語は略す)
 贖罪の哲理
 最終問題
(内村鑑三「求安録」の「見出し」、教文社全集1所収版より)

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 「信仰三部作」ともてはやされているうちの一冊、三浦綾子の「光あるうちに」。
 上の引用はその中からのものだが、では「人間が生まれながらにして持っている罪」とは一体、何なのだろうか。
 さらに続けて彼女は書いている。
 「『性欲も、食欲も原罪だそうです』と座談会で語っておられ、わたしはこまったなあと思った……」。(同頁)。
 教会の受け売りしかしていないので、まぜっかえされて困ることになる。
 ただ、このことは彼女ばかりではない。

 ところで神の基準は、律法に明らかに示されている。
 イエスは山上の説教で、この律法を更に厳格解釈された。
 これらを常にクリアーしている人は義人である。
 だがそんな人はおらず、すべての人は罪の下に閉じこめられている。
 「人間が生まれながらにして持っている罪」とは、実は聖書に照らして明らかで、この神の基準に従うことの到底できない肉を指す。
 だが、律法や山上の説教に接していても、自分が罪人だと悟ることは難しい。その盲目の様を、イエスは山上の説教で説いている。

 「兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」(マタイ7:4新共同訳)

 救いというのは罪からの救いなので、丸太に目を塞がれて罪に気付かないまま救われると言うことは、ありえない。
 だが、ふとしたきっかけなのであろうか恵みによってであろうか、自身の罪に嫌と言うほど気付かされるときが来る。
 そうすると、上の内村鑑三のようにもんどり打つ。
 「脱罪術」。
 「忘罪術」。
 そのように苦しみ抜いた果てに、イエス同様、肉に死んでいのちによみがえる。これが十字架と復活による救いであり、信仰義認である。
 だから、罪とは何かが分かってはじめて、そこから救いが始まってゆく。

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 ほんじつの記事は、2006年9月22日付の記事を再構成したものです。

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