イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
神に教えられる
「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
わたしはいのちのパンです。
あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:45-51)
---
イエスは仰る。「またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」。
イエスは「世のいのち」のために、自らの肉を与える。
いや、受肉しているイエスの肉自体は、わたしたちのそれとは何ら変わらないアダムの肉だ。
肉をまとった神。
その肉をささげて、「世のいのち」に供する。
どのようにして供するのかというと、十字架でのいけにえということだ。
神御自身が極刑を受け、このアダムの肉を処断された。
そして神はこのイエスを復活させ、このアダムの肉に赦しを与えられた。
この赦しは、「マナ」とは全く何の関係もない。
今イエスは、パンを目当てに追ってきた群集を相手に話されているが、彼らが欲しいのはあくまで空腹を満たすマナにすぎず、それはイエスが与えようとする「いのちのパン」とは全く異なる。
だからイエスは、この群衆に仰る。
「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」。
群集はイエスのところに来たのではない。
パンのありかを探しに来ただけだ。
ところが、「神によって教えられる」とき、その人はおのずとイエスのもとに駆けつける。
「赦された」ということが、字面をはるか超えてはっきり了解できたからだ。
もちろんイエスは、彼を受け入れる。
---
[付記]
本日の記事は、
[一版]2007年11月19日
[二版]2009年 1月 5日
[三版]ほんじつ
その都度、筆を入れました。
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だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
わたしはいのちのパンです。
あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:45-51)
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イエスは仰る。「またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」。
イエスは「世のいのち」のために、自らの肉を与える。
いや、受肉しているイエスの肉自体は、わたしたちのそれとは何ら変わらないアダムの肉だ。
肉をまとった神。
その肉をささげて、「世のいのち」に供する。
どのようにして供するのかというと、十字架でのいけにえということだ。
神御自身が極刑を受け、このアダムの肉を処断された。
そして神はこのイエスを復活させ、このアダムの肉に赦しを与えられた。
この赦しは、「マナ」とは全く何の関係もない。
今イエスは、パンを目当てに追ってきた群集を相手に話されているが、彼らが欲しいのはあくまで空腹を満たすマナにすぎず、それはイエスが与えようとする「いのちのパン」とは全く異なる。
だからイエスは、この群衆に仰る。
「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」。
群集はイエスのところに来たのではない。
パンのありかを探しに来ただけだ。
ところが、「神によって教えられる」とき、その人はおのずとイエスのもとに駆けつける。
「赦された」ということが、字面をはるか超えてはっきり了解できたからだ。
もちろんイエスは、彼を受け入れる。
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[付記]
本日の記事は、
[一版]2007年11月19日
[二版]2009年 1月 5日
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